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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

永遠の法  -心の世界-  

永遠の法120-171



死後、私達が還ってゆく、あの世の世界とはどの様な世界なのでしょう。
天上界とはいったいどの様な人たちが住んでいるのでしょうか。

肉体を脱ぎ捨て心のみとなった、念いのみとなった、意識体としての生活とは
いったいどのような生活なのでしょうか。

それは霊として自由自在な生活であるのです。

天上界では食物をとらなくても死ぬことはありません、
お金もうけをしなくても路頭に迷うことはありません、

青春期での性の苦しみもありません、学校でのいじめもなければ親子の葛藤もない
経済的な苦しみもなければ職場で人に使われる苦しみもない、
いやな人に会う苦しみ、好きな人と別れる苦しみもありません。

病気の苦しみもないし、年老いて醜くなってゆく苦しみ、
そしてやがては死んでゆかねばならないという恐怖に対する苦しみ

天上界とはこうした苦しみが何一つない世界なのです。

天上界ではお互いの心がガラスばりでだれからでもわかるため、
不調和な心を持っていてはとても同じ世界にいられなくなります、

よって日々会う人々は心が調和されたすばらしい人々ばかりなのです。

人間の生命は永遠です、
そしてそれは調和された生活をして生き、美しい心をもって
天上界に還った人にとってはこの上ない福音です、

そうしたすばらしい世界の中で
永遠に生命をまっとうしてゆくことができるからです。

人間は心です、魂です、よって死んであの世にもって還れるものは心しかないのです。

心がすべてなのです。

死んで持ってかえれるものは心しかないときずいて初めて、
人間は真に力強い人生をおくることができるのです。

心しかもってかえれないならば、せめて美しい心を持ってかえるしかないでしょう

それはいったいどの様な心でしょう、
それは愛に満ちた心です、与える心、生かす心許す心、感謝する心です、

ですからそうした心を持ってかえれるようにように、熱鉄のごとく熱く燃え上がるべきなのです。

こうした事実をよくよくこころにきざんで、
どうかみなさまも真に力強い人生を開拓していってほしいと思います。


category: 永遠の法

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永遠の法  -霊の本質と天国地獄-  

永遠の法120-171


私たちは死後あの世に還ってゆくわけですが、あの世には天国と地獄があり
必ずどちらか一方におもむいてゆくことになります。

私たちはみな天国に行きたいと思っているはずであり地獄に行きたいという人はいないでしょう。

ではいったいどうすれば天国に行けるのでしょう、いったいどのような人が天国に住んでいるのでしょう。
その明確な説明がされているものはほとんどないといってもよいでしょう。

昔からよくいわれているものに戒律というものがあります、それに照らし合わせて罪とそうでないものをわけ、
罪多きものは地獄に堕ち、罪のないものは天国に行くという考え方です。

例えば、人を殺せば地獄に堕ち、人を殺さなければ天国に行ける、あるいは物を盗めば地獄に堕ち、
盗まなければ天国に行ける、こうした考え方です。

たしかに、こうした考え方にも真実が光っていると言えます。
しかし、本当の天国、地獄を分けるものは何かというと、こうした戒律ではないのです。

結局、その人の六十年、七十年の人生を通して、神の子としての本質に気がついた人は天国にいっており、
またその本質を発揮すればするほど、高い天上界に昇って行っているわけです。

その一方、神の子としての本質に気付かずその芽を出さないままにこの世を去った人は、
地獄界というところで厳しい試練をうけている、これが本当の姿なわけです。

昔話によくでてくるものに畜生道というものがあります。
そこでは人間はもはや人間の姿をしておらず、体が馬であって顔が人間、
体が牛であって顔が人間、こうしたものが現実に存在するのです。

またヘビのようになって地獄の地面をはっているものもいる、
こうした人たちは、なぜ自分がこういう姿になったのか、という事がわからずそうしているのです。

それは、彼らが、霊の本質ということを知らないからです。

霊の世界は、思った事が実現する世界なのです。

しかし、彼らは生前、生きていた時に思った事は、心の世界においてすでに実現したことだということを知らないでいたのです。

心の中でどのような思いを持っていても、外面から見えないからかまわないと思って生きてきた人たちなのです。

肉体を持っていた時に、その心の中が透き通しで、何もかも見通されてしまえば、
恥ずかしくてとても人前に出られなかったような人たちなのです。

そうした人たちが、あの世の世界に還って、つまり、霊の世界に還ってはじめて、
自分の心の中をすべて見られてしまって、そして、思った通りのすがたになると知って愕然とするのです。

地上に生きていた時に、人に対する妬みや恨み、そうしたものをもって生きていると、
体がヘビのように変わったとするならば、人はその間違いに気付くでしょう。

しかし、生前はそうしたことがなく、この世の法則の中で生きているために、それを知らないでいるのです。

こうした真実の世界の姿を知ったならば、人間は地上にいたときに、
いったいどのように生きなければいけないか、よくわかるはずなのです。

永遠の生命などなく、この世かぎりで、有限の人生だと思っているからこそ、やりたい放題の事をし、
人を傷つけ、人を蹴落としてでも偉くなろうとしているのです。

ところが、そうした結果が、地獄の中で、永遠の生命どころか永遠の苦しみの中でのたうちまわるという事を知れば、
どれだけ割が合わないかということがわかるはずなのです。

しかし、生きていた時にささやかな善意の中に生きていたということが、あの世での至福の生活、
これ以上ない素晴らしい生活へと展開していくならば、
「なぜ地上にいたときにもっといいことをしてこなかったか」と誰もがそう思うはずなのです。

この世で良い事をしたら、あの世で十個いい事をしたぐらいの価値があるのです。

なぜなら、この世とは非常に難しい世界であり、魂は盲目、目かくしの、手探りの状態で修行をしているのですから、
目かくしの、手探りの状態で天国的なる生活を展開した人はあの世での五倍、十倍の値打ちがあるのです。

この世でのわずか数十年の間、天国的生活を送った人は、あの世では、その十倍になって帰ってくるのです。

この世はまた、そうした価値ある世界でもあるのです。
こうした真実の世界観をよくよく理解して、日々勇気を持って生きていってほしいと思います。



category: 永遠の法

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永遠の法 -波長同通の法則-  

永遠の法120-171

この世を去った、あの世、実在の世界は何層もの霊層に分かれています。

こうした霊層というものは、ある一定の法則によって階層が分かれているのであり
けっして、人間をランク付けするためにあるのではありません。

あの世の天国、地獄というものは、物質的な世界ではありません。

天国、地獄というものは、どこか見えない所に物理的な世界があって、
人間がそこに移住しているような考えを持つかもしれませんが、そうではないのです。

あの世の世界は、波長の世界、波動の世界なのです。

私達の本来の姿は、心であり、魂であり、それは、意識体、エネルギー体として生きているのです。

その意識体には、ある一定の波長があり、その波長に合う世界へと赴いてゆくことになっているのです。

これが、波長同通の法則と呼ばれているものであり、
同じような波長の者どうしが、合い集まって生活しているのであり、
波長の違う者どうしは原則として、出会うことがないようになっているのです。

私達の心は、常々、電磁波を出しているようなものだと考えて良いかもしれません。

もし、その電磁波を受信し、その映像を映し出すテレビがあれば、
あなたの心の世界が、その情景が、映し出されるでありましょう。

もしそれが、荒い、荒い波動であったなら、そこには地獄の世界が映し出されるでありましょう。

しかし、その波動が非常に精妙な波動であったなら、
そこには、非常に美しい世界、調和され牧歌的な世界、天国が映し出されるでありましょう。

このように、私達の五十年、六十年、七十年の人生において、
その心の、思いの波長というものが、形作られてゆくものなのです。

その一生において織り成した、心の波長にもとづいて、死後、
その波長に合う世界へと赴いてゆくことになっているのです。

この世において、本当に悪の限りをつくして生きて、死後、天国にて調和された生活を送ることもなければ、
本当に天使のように生きて、死後、地獄の底で苦しみにのたうちまわることもないのです。

私達の世界は、この世とあの世を貫いて、こうした法則のもとに成り立っているのです。

そのことを、日々、心に刻んで生きていってほしいと思います。
そうしたならば、必ずや、本当のやすらぎと幸福が約束されているはずです。



category: 永遠の法

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永遠の法 -ダイヤモンドの原石-  

永遠の法120-171


今日は、「ダイヤモンドの原石」についてお話してみたいと思います。

「ダイヤモンドの原石」とは、いったいなんなのか、それはほかならぬ、私たち自身のことであります。

私たちの本質は、ダイヤモンドのようにすばらしい存在であるのです。

その事について、「永遠の法」のなかにおいて、非常にわかりやすく説明がなされています。
以下、その本文を紹介させていただこうと思います。


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「永遠の旅人」として、人間は魂の進化を求めている存在でありますが、
ここで、多くの人々の心に浮かんでくる疑問というのは何か。

なぜ高級霊や低級霊という区別があるのか、なぜ偉い人と偉くない人がいるのか、
なぜ光の天使と言われる人がいて、そうでない平凡な霊がいるのか、

神様は人間を平等に愛しておられるはずなのにおかしいではないか、と。

こうした疑問というものが、ふつふつと心の底から浮かんでくるのではないでしょうか。
それに対する答えが、本節の表題でもある「ダイヤモンドの原石」ということであります。

人間というものは、誰もが、磨けば光るダイヤモンドとして創られているのです。

このダイヤモンドは、原石として、各人切り出されている、つまり、山から原石として掘り出されている
わけでありますが、このダイヤモンドをどのように光らせるかということが、
各人の課題として与えられているのです、これが、課題なのです。

そして、誰もが、この課題から逃れることはできないのです。

私たちは、光の天使とそうでない霊とを考えて、光の天使というのはダイヤモンドであって、
自分たちは石炭殻や、あるいは、木炭、あるいはまた、河原の石ころのように考えてしまうかもしれませんが、
本来は、そうしたものではないということです。

キラキラ光るダイヤモンドと河原の石ころであっては、その差は非常に大きなものでありますが、
本質は決してそうではないのです。

すなわち、その証拠は、どのような人間であっても、磨けば魂から光が出てくるということ、
この事実によってはっきりとわかるわけです。

この比喩だけでわからないとするならば、さらに具体的に、話をしていきましょう。

たとえて言えば、地獄霊です、
よく地上の人たちは、地獄霊、あるいは、悪魔というような話を聞くと、
何でそんなものが存在するのか、そんなものの存在は許せないと、こう思う気持ちがあります。

神様は、そういう悪霊たちを退治してしまえばいいのではないか、この地上から追い払い、また、
地獄界から追い払って、宇宙の彼方にでも閉じ込めてしまえばいいじゃあないか、と、
こうした考えをもつ人もいらっしゃると思います。

けれども、これはまだ、魂の本質を知らないわけですね。

私たちの目には、地獄霊というのは非常に嫌なもの、醜くて、常に人を不幸にしようとしている姿、
こうしたものに見えますが、彼らもあるきっかけを得て立ち上がることがあるわけです、
立ち直ることがあるのです。

たとえば、私のところには、さまざまな人生相談もあるわけですが、そのなかには、悪霊に憑かれている人の相談もあります。

実際、その悪霊と直接話をしたことも数多くあります、そうしたときに感じるのは、結局のところ、
彼らは、ほんとうのことを知らないということです、霊の本質を知らない、人間が肉体ではないことを知らない、
善いことをせねばならないのだということを知らない、自分が地獄にいることさえ知らない、
こうした知らないづくしの地獄霊なのです。

ですから、こうした彼らに、ほんとうのこと、すなわち真実真理を教えてやったときに、
彼らはハッと我に返ることがあります。

ハッと我に返って、「しまった、自分は今まで偽りの人生を生きてきた、このままではいけない。
自分はまっとうな生き方をせねばならない」と、悪霊と言われる人びとも、こうしたことに気がつくことがあります。

その瞬間です。真っ黒に見えていた霊体が、光を放つのです。後光が射してくるのです。
彼らの薄ぼんやりした頭の後ろからも、後光が射してきます。

では、なぜ後光が射すかです。もし彼らが、河原の石ころであったら、磨いても光はしないはずです。

しかし、磨いたら光が出るということは、彼らが悪霊やサタンと言われる者たちであっても、もともとは、
ダイヤモンドであるということなのです。

ダイヤモンドの原石なのです。
だからこそ、光が出るのです。

ただ、そのダイヤモンドの原石が、すすで曇ったり、あるいは、泥にまみれているだけなのです。

だから、通常人の目からみれば、泥にまみれたダイヤモンドなのにもかかわらず、ただの石ころだと思えて、
捨ててしまいたくなることがあるのです。

しかし、川の水で洗えば、その石ころは、燦然と、また光を放ち始めるのです。

こうしたところに無限の可能性があり、そして、無限の可能性を与えられているというところに、
神の無限の愛というのが現われているのではないでしょうか。

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category: 永遠の法

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永遠の法 -四次元の世界- 1  

永遠の法120-171


私がここにて、みなさまにお伝えしていること、それは、
私たち人間の本来のすがたは、肉体ではなく、そこに宿っている魂、心こそが本来のすがたであり、
死して肉体はなくなっても、魂はなくなることはない、実在界、つまりあの世の世界にて、
永遠の生命をもって生きつづけているのだ、ということです。

今回お伝えしたいのは、そのことからもう少し踏み込んで、
では、あの世の世界とは、いったい、いかなる世界なのか、

いったい、どのような人が住んでおり、どのような生活をしているのか、
この世にて、どのような生き方をすれば、どのような人生を送ったならば、そうした世界に還っていけるのか。
そうしたことを、お伝えしようと思います。

もちろん、肉体を持ってこの世の世界に生きていれば、目に見えないあの世のあり方そのものを、
あたかも、映像に写し出したように説明をすることはできません。

しかし、あの世の世界の神秘を、出来るだけ理論的に、かつ現実感を踏まえて説明できる
そのような書が、もし存在していれば、その書を紹介することにより、
みなさまに、あの世の世界のいかなるかを、理解していただけるのではないかと思います。

今回紹介させていただく書は、永遠の法、という書でありますが、
この書によりますれば、あの世の世界というものは、大きく分けて、六つの階層に分かれているようです。

それは、四次元幽界、五次元霊界、六次元神界、七次元菩薩界、八次元如来界、九次元宇宙界、
というふうに命名されています。

一番人口の多い世界は、四次元幽界というところであり、上段階に進むにつれて人口は少なくなっていき、
九次元宇宙界にいたっては、十人しかいないということです。

それでは、まず、私たちがこの世を去って、まず最初に足を踏み入れるであろう世界、
「四次元の世界」について、ご紹介していこうと思います。

本日より数日をかけての説明となると思いますが、どうかすべて読んでいただき、
あの世の世界についての理解を深めていただきたいと思います。

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あの世とこの世

人間にとっては、自分が何処から未て、何処へ去って行くのか、これは重大問題であり、
常に心の底から、このことが離れることはないでしょう。

しかし、人間が何処から来て、何処へ去って行くのかということに、
未だかつて明快に答えきったことがある人は、数少ないであろうと思われます。

すなわち、この問題は、あの世とこの世の関係というものを解明せずしては、答えが出ないものだからです。

しかも、残念ながら、現在、地上にある学問のレベルにおいては、あの世とこの世について
明快に説明をするだけの学問的蓄積も、方法論の確立もありません。

しかし、微かながらもあの世とこの世を解明する手立てとして、
時代時代に現われる霊能者の活躍というものがあります。

といっても、霊能者のなかにもさまざまな方がおり、もちろん、そのなかには、
ほんとうに信頼できるような方もいらっしやいますが、
たいていの場合においては、人格的に未熟な方、人格的におかしい方であり、こういう方が数多くおられるため、
世の人びとは、そのことばを一様に信ずることができないのです。

ですから、霊能者と言われる方が、何とかの霊が見えたとか、あるいは、
あなたは一年後にこういうことになるとか言ったとしても、それを実証するものが何もない。

そのため、不安感が残り、それを信じることができないのです。そういうことだと思います。

すなわち、あの世とこの世を解明するにあたって、その不確かさというのは、実を言えば、
そのことを追体験ができないというところにその原因があるわけです。

もし誰もが同じような体験を重ねることができるならば、すべての人が、
あの世とこの世があることを認めるでしょうけれども、実際には、
特殊な人にしか追体験を許さないことになっています。

それゆえ、普通の人にはそれがわからない。そこで、世の常識ある人びとは、あの世の存在、そして、
あの世との関わりにおける、この世というものを認めたがらないわけです。

人間は、自分の人生観、人生の目的というものを、常々考える存在ではありますけれども、
自分が大宇宙のなかにおいて、どのような存在であるのかということを明確につかむまでは、
確固とした人生観、確固とした人生の目的というのは、真に確立し得ないのです。つまり、一大問題であるからです。

もし唯物論者の言うがごとく、母親のお腹のなかからいきなり生命が発生して、そして、六十年、七十年生き、
やがて焼き場で焼かれてしまったら、それで終リになってしまう人生であるならば、もしこうしたものであるならば、
それなりの考えをもって生きていかねばならないでしょう。

けれども、宗教家たちが言うように、実在界という世界があって、あの世からこの世に生まれ変って来て、
赤ん坊に生まれて何十年かの人生を生き、その後、この地上を卒業して、あの世の実在界において、
さらなる魂の向上を目指しているのならば、また、考え方が違うということです。

これは大きな目で見れば、人生というものを、たとえば、小学校だけと見るか、小学校、中学校の義務教育と見るか、
あるいは、大学まで卒業して一人前と見るか、こういういくつかの見方があると思うのです。

唯物論の考え方というのは、人生というものをいわば小学校のなかに閉じ込めているわけですね。
小学校の六年生が終れば、もう義務教育は終ったというような考え方でもありましょう。

しかし、霊界という世界があり、人間が永遠の生命として転生輪廻しているという考えは、
小学校を出ても中学校があり、高校があり、大学があり、大学院があり、そして、
社会に出てもさまざまな学びがあるという、連綿と続く学習の場としての人生というものを考えるということになります。

こうした二つの定点を置いてものを見た場合、どちらが人間の進化、あるいは、向上に役立つかと言えば、
その結論はあきらかであろうと思います。

すなわち、永遠の進化を目指すという観点に立ったとき、人間というものははるかに向上していくものだということです。
一回かぎりで、わずかな期間だけしか生きていないものだとするならば、
そうした線香花火のような存在だとするならば、人生には、やはり重大な意義も、目的も、見い出せないのではないでしょうか。

そして、もしそうであるならば、その短い期間の間を線香花火のように燃えつきるため、さまざまな快楽に耽り、
物質欲に耽り、放恣な生活をしてしまうのではないでしょうか。また、人間は、
誰もが個人主義に陥っていくのではないでしょうか、

わずか数十年の人生であるならば、
自分が楽しまなければ損だという考えになってしまっても、おかしくはないかもしれません。

しかし、永遠の人生であればこそ、人のために奉仕したことが、やがては、自分自身の魂の糧となって
必ず戻ってくると考えられるのではないでしょうか。

ですから、人生観、あるいは、人生の目的と使命というのを考える際に、
あの世とこの世という視点を理解しておくことは、非常に大切なことです。
これを外しては、ほんとうの意昧での人生というものを、また、人間というものを知ることはできないと思います。




-四次元の世界- 2

category: 四次元幽界

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