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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

運命の開拓 -神の栄光- 1  

運命の開拓128-182

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

今年もみなさまの糧となるべき書を紹介させたいただけたらと思います。

まず今年の第一回として、運命の開拓ということで天之御中主之神の霊示を紹介したいと思います。

本来伝承では、天之御中主之神とは天地を創造した神様となっているようですが、
実は人霊であり、今から数千年の昔に日本の地に生まれて、今の日本国の礎を築かれた方のようです。

日本神道の教えとは、秩序と礼節を重んじる事、そして光一元の光明思想にあるようです。
今回はその光一元の神髄を紹介させていただきたいと思います。

私たち人間の本来の姿は肉体ではなく、霊であり、魂であり、心であり、
その本質は、光り輝く神の子そのものであり、偉大なる存在なのだ。

それは、私たちだれ一人として例外はありません。

どうかその言霊にふれてほしいと思います。


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一繁 栄

神の本質、神の働きというものを考える時、
私たちは、どうしても繁栄ということを考えざるを得ないのです。

なぜなら、神とは、本来的に良きものを意味しているからです。
本来的に良きものであるからこそ、良きものへと向かって行くという方向性があるのです。

したがって、繁栄は、神の属性と言うよりは、神の本質そのものであります。

神は、すなわち、繁栄であり、繁栄はすなわち、神である。
そのように考えてもいいと思う。

もちろん、地上に起きるさまざまな出来事、人の運命、時代の運命、国家の運命、
あるいは国の運命、地域の運命、村の運命、さまざまなものを見る時に、繁栄もあれば、
衰退もあるようにも見えることがある。

ただ、大きな目で見た時に、大宇宙の中の地球というものの中のその栄枯盛衰の歴史を見た時に、
それは単なる停滞ではない。それは単なる衰退ではない。

一時期、幕が引かれたかのように見えても、それは、次なる幕が開かれんがための繁栄の序曲にしか過ぎない。

この世に衰退などないのである。退化はないのだ。進化しかない。良くなるしかないのである。
これが神の御心である。

われわれは堕落とか、後退とか、そうした言葉を一蹴せねばならない。

神は大いに育む気持でもって、人類を生かしめ、動植物を生かしめているということを、これを知らねばならない。
これを忘れた時に、人間の不幸が始まるのである。

不幸の原因は、すなわちこれ、人間が神の子であり、神の子であるならば発展、繁栄ということを、
その本質おいて持っているということを忘れた時に、端を発するのである。

人間は繁栄する義務があると考えたとき、この世の中のつまらない悪事、この世の中のつまらないいさかい、
不和、不幸、こうしたものは、朝日のもとの露のごとく消え去ってゆくしかないのである。

人びとよ、わが声を聴け。汝らは繁栄の義務がある。この義務を神より負っておるのだ。

ならばこの義務を果たせよ。ならばこの義務を遂行せよ。汝ら繁栄のためにこの地上に遺されし戦士である。
生めよ、殖やせよ。幸せを放てよ。幸せを育てよ。幸せを育め。繁栄のためには協調があるのだ。

繁栄のためには協力があるのだ。繁栄のためには共に手を携えてゆかねばならん。
そこには悪はない。そこには不和はない。そこには人間関係の不調和はないのだ。
これを知れ。

こうした悪を除こうとか、不和を除こうとか、不調和を消し去ろうとか思わずに、まず、自らの心に問え。
自らが神の子としての繁栄を刻んでおるかどうかを。繁栄の自己実現としての自分の生き方であるかどうかを。
これを心に問え。そして実現せよ。そこに大いなる時代が開けてゆくのだ。

よいか、汝らは大いなる義務を持っておるのだ。汝らがこの地上にて吸う酸素は、
この地上にて恩恵を浴する太陽の光は、動植物の生命も、汝らに奉仕しておるではないか。

これらはすべて、汝らが負った義務である。この義務を遂行せよ。
それは繁栄という形を通して。大調和、大進歩という姿を通して。汝らはこの義務を果たせよ。

すなわち、心にまず刻め。今日よりのち、繁栄以外にはないということを。
繁栄のみがわが仕事である。生い茂るが如く栄えることが、わが一生の大事業なりと思え。

これは人間だけではない。あの木を見よ。亭亭としてそびゆる木を見よ。あの大木を見よ。
大木はただ、高く高くまっすぐに伸びてゆき、枝葉を繁らしていくところに、そこに真なる自己実現があるのではないのか。

あの花を見よ。野菊一本たりとて、繁栄の姿を宿らしておるではないか。菊の花だとてその通り。
ダリヤの花だとてその通り。ひまわりの花だとてその通りではないか。

大いに背丈を伸ばし、自らの美を誇っておるではないか。
動物、植物でさえ、そのように繁栄ということを求めていくのだ。

さらばいと高き者、いと貴き人間よ。汝らはなぜ繁栄を目指さぬか。

繁栄とは生い茂ることなり。生い茂って栄えることなり。この気持を大切にせよ。
そしてまっしぐらに伸びてゆけ。天に向かって伸びてゆけ。神もまたそれを望んでおる。

汝らはひまわりの背丈が高いからと言って、それで何の後悔をすることがあるであろうか。ないのだ。

汝ら人間が、繁栄することを見て、神は何も不思議に思われない。
それを喜ばれるのみである。どうか、そうしたことを出発点としなさい。



-神の栄光- 2



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運命の開拓 -神の栄光- 2  

運命の開拓128-182


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二 新 生

さて、人間は繁栄の義務があるということを、みなの者は学んだことと思う。

しかしこの観点に立って、自らの現在と過去とを振り返って見る時に、そこに、
繁栄の自己実現の過程としての自分の姿がないことに気が付くことが多いであろう。

ある時には停滞をしておるようにも見え、ある時には後退をしておるようにも見えたのであろう。

それは、汝の心の迷いであり、汝の目の錯覚であるということを知れ。そうしたものに惑わされてはならん。

停滞は実在ではないのである。衰退も、退歩も、実在ではないのである。
そんなものは蜃気楼のごとき姿にしか過ぎない。目の錯覚にしか過ぎん。心の迷いにしか過ぎん。

そうしたものに惑わされるなかれ。この大宇宙の姿は、下り下りて止まぬ川の流れのように、
大いなる生命の奔流を流し流して、そして止むことのない力なのである。

したがって汝ら、その心の迷妄を断て。その心の誤りを断て。そして、その瞬間に、
新生ということが始まるのだ。新しく生まれ変わるということが始まるのだ。

汝ら正しく生まれ変わらずして、神の心にかなうこと能わず。神の心にかなうためには、まず、新生せよ。
まず、新しく生まれ変われ。新しき命を得よ。間違った考えを捨て、間違った生き方を捨て、
そして、新生の局面に入れ。一躍跳入正しき生活に入れ。

そのための勇気があるではないか。そのための愛があるではないか。そのための力が、
心の底からふつふつと湧き上がってくるではないか。

どうか、新生ということを心に抱け。そして、自らの心の奥の奥から、
ふつふつと湧き上がってくる泉のごとき力の確かさを知れ。

汝らは想像してみたことがあるか。その泉の底よりふつふつと湧いてくる水の力を、
どうやって閉じ込めることできるであろうか。

泉の上にふたをしたところで、その地下水は、また、そのまわりに伏流水となって流れて来るのだ。
この伏流水のごとき水の力を知れ。

川の流れの中には、乾いた川のようになっておるところもある。砂地となって水がないように見えるところもある。
しかして水は、その砂の下深く深く、数メートル、数十メートルの下を流れ、
また伏流水となって、やがて地上に顔を出し、滔滔たる流れを創っていくのである。
               
泉のその吹き出す水を押し止めることができないように、汝らの心の内の内なる生命力は、
汝らの心の内の内なるエネルギーは、これを押さえんとして押さえること能わず。

吹き出し吹き出し、ほとばしり出て止まない力があるのである。これを知れ。
この吹き出してくる力こそ、汝らの新生の力とせよ。

汝らはもともとそうした力を持っておるのだ。これは与えられるのではない。すでにあるのだ。
すでに与えられておるのだ。この吹き出してくる力を自由にせよ。

その吹き出してくる泉の力を、こんこんと湧いてくる泉の力を自由のままにせよ。
それを遮るものをなくせ。それを押し止めようとするな。

それを押し止めようとするような心は卑怯な心だ。それを押し止めようとするような心は、臆病な心だ。
それを押し止めようとする心は暗い心だ。それを押し止めようとする心は、劣等感のとりことなった心だ。

こうしたものを一蹴せよ。さすれば、こんこんと湧いてくる泉は、澄んだ清らかなものとなるであろう。
この澄んだ清らかな泉のことをだれが汚れていると言おうか。

誰もそうしたことは言わない。汝ら誤解してはならん。水は土に混じればすぐ濁ると思ってはならん。
泉の水というものは、土の中より噴出して清きものである。土の中より噴出して濁ってはおらん。
水は澄んでおる。どうかそうしたものが、汝らの力の本源であることを知れ。

汝ら人生の中において、さまざまな事件に遭い、さまざまな人に会い、さまざまに心乱れ、
さまざまに人生が傷つくように見えることもあるであろう。

ただ知れ。汝らはこの泉の水のごときものだ。土の中よりほとばしり出て、土をその中に含まぬものである。
そうした清い清い力が、汝らの心の本流を流れておる力だということを知れ。

そうしたものとして自分を信ずることが、これが新しく生きる力となっていくのだ。

この新生の原理を知れ。それはまず、自分の本質なる内なる力を、これを、すばらしさを信ずるということだ。
新生のエネルギーというものは、決して決して他人にもらったり、あるいは外部によって、与えられるものではないということだ。

自らの内なる泉を掘れ。自らの内からほとばしり出る水に敬意を表せ。
さすれば汝ら心が水のように青くなるであろう。心はまっすぐとなり、そして流れて行くであろう。

人新たに生まれ変わらずんば、神の世界へ入ること能わず。このことを知れ。

そのことを強く心に念え。その時に、汝らには、新たな新世界が、人生が展開してくることとなろう。
このことを強く強く知りなさい。


-神の栄光- 1

-神の栄光- 3


category: 神の栄光

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運命の開拓 -神の栄光- 3  

運命の開拓128-182


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三 美

神の栄光というものを考えるとき、私たちは「美」というものを考えざるを得ない。

なぜこの世に美というものがあるのか。なぜ美しさというものがあるのか。何をもって、美しいとしておるのか。
私たちは、これらのことを深く深く知らねばならんのである。

美とは何か。その美の本質とは何か。世によく言われることは、
美の本質として女性の美しさをよくあげられる。

確かに女性は美しく見えることが多い。ただ、その美しさは一体どこから来ておるのか。
その髪の黒さか。その髪の長さか。そのまゆ毛の濃さであるのか。その目の大きさであるのか。

その鼻の筋が通っておることであるのか。その口もとの美しさであるのか。
一体何をもって美と言うのか。この定義ははなはだ難しい。
                                        
されども、人びとは、あるものを見て必ず美しいと言う。あるものを見て醜いと言う。

人びとには、それが定義される前に、美というものをすでに知っておるのである。

一体では、どこでその美なるものを、美しきものというものを彼らは学んだのであるか。

空を見て美しい思う。夕焼けを見て美しいと思う。大海原を見て美しいと思う。
花が咲くのを見て美しいと思う。女性を見て美しいと思う。

こうした美しいと感ずる感情は、決してこの世的に教えられたるものだけではないということだ。

我らは、その美しいという感情を根本において知っておるのです。

なぜ知っておるか。すなわち、神は美であるからです。

神が美である。神から分かれて来た私たちであるからこそ、
私たちは本質的に美とは何かということを知っているということなのです。

本来美しいものが美しいものを感じておるのです。

自らの心の中にあるものと共感して、外部にあるものが美しく感じられるのです。

花を見て美しいと感じるのは、その同じ美しさを心の中に持っているからなのです。

心の中に持っておるその美しさが、外部に現われたる花の美しさと共感し合い、共鳴し合っておるのです。

では花の美しさとは一体何であるか。その色か。その形か。
確かにそれらのものも、美しさを醸し出すための要素となってはおるのである。

しかしながら、花が美しいその理由もまた、花の生命力の中にあるということを知れ。

彼らも、本来美というものが何かということを知っておるのだ。

すみれの花というものは、どれを見ても美しい。すみれの花は醜く咲くことを知らない。
彼らはどう咲けば醜くなるかということを知らない。彼らはただ美しく咲いておるだけである。

それは谷間に咲こうが、花壇に咲こうが、あるいは、山肌に咲こうが、
すみれはすみれとして美しい花を咲かしておるのである。

それは、すみれであることというそのこと自体が、美しさを保っているのだ。

しかるに、人間よ、汝らに美醜があるがごとく見えるのはなぜであるか。

それは、男女を問わない。男性にしても女性にしてもそうだ。
汝らには美醜があるかのごとく見える。美しく見えたり、醜く見えたりすることがあるようにも見える。

これはなぜか。すみれはすみれ、すべてが美しくなっておる。

なぜ人間に美醜があるかのごとく見えるのか。牡丹の花はすべて美しく咲くように見える。
白百合の花はすべて美しく咲くように見える。菊の花はすべて美しく咲くように見える。

しかるに人間の男女よ、汝らはなぜ醜く見えることがあるのか。

それは、醜く見せておる心と、醜いものと見ておる心があるということだ。



-神の栄光- 2

-神の栄光- 4


category: 神の栄光

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運命の開拓 -神の栄光- 4  

運命の開拓128-182


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神が人間に与えられた一つの大きな力は、この心の創造作用ということだ。

心がものを創り出しているのだ。概念を創り出してゆく、
念いを創り出してゆくという力、こうした創造力を持っておるのだ。

したがって、こうした創造力を自由に使えない花は幸せである。
彼らは美しいものを美しく現わしておるだけである。

ところがこうした自由な創造力を与えられているがために、人間はこの創造力を駆使して掲ある時は美しく、
ある時は醜くなろうとするのである。

なぜ醜くなってしまうのか。それは、心の中において、
その純粋な神の心の実現を妨げんとする思いがあるからだ。

たとえば知れ。どのような悪人であっても、子供と戯れておって笑顔でいる姿は美しいとは思わぬか。
その悪人がなぜ凶悪な顔をして、犯罪を犯すのか。

彼らも子供たちと戯れる時の姿は実に天真欄浸で美しい。
それがひとたび、罪を犯さんとしたときに、その顔が凶悪な顔と変わってくるのではないのか。

すべてがそうしたものだ。

すべてが心の現われであることを知れ。人間には大いなる心の自由を与えられたということを知れ。

大いなる自由を与えられたることにより、善きことも悪しきことも実現ができるようになったのだ。

本質において善であるのだけれども、こうした迷いが悪を生むに至ったということである。

まず、本源に立ち還れ。まず、本当の姿に立ち還れ。美を妨げるものは心の悪である。

その心の悪というものが本当はないということを知れ。
その心の悪というものは、本来の心の働きを阻害しているものだと知れ。
川の流れをせき止めているものだと知れ。

美というものはそのままで美しくなっていくのだ。そのままが美しいのだ。

素直に「はい」と受ける心が美しいのだ。

人間として生まれて、神から命を与えられて生きている、
この使命を素直に「はい」とそのまま受けて、素直に生きていくところに人間の美しさがあるのだ。

ただこの素直さをどこかに人間は忘れ去っておるのだ。
それは自分が知と意で学んだこと、考えたこと、こうしたものによって失われておるのだ。

どうか、ただそのもので美しいという心境を忘れてはならない。

それは努力によって取り戻すものではない。
いらぬ努力をせぬことによって本来の美しさが取り戻せるのである。

すなわち、本来あるべき美の姿を人間が取り戻すために、素直な心となれ。

まずこのことが、何にも増して大切であるということを知れ。

素直になるということは、ありのままに見、ありのままに感じ、ありのままに思い、ありのままに喜ぶということだ。

こうした幼な児のような素直な心にならねば、本当の美というものを実感することはできない。

こうしたことを人間は深く深く、思い至さねばならない。



-神の栄光- 3

-神の栄光- 5




category: 神の栄光

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運命の開拓 -神の栄光- 5  

運命の開拓128-182


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四: 霊

神の栄光を語る時、霊の本質ということを考えないわけにはいかないのである。

人間はこの霊という言葉に、摩詞不思議な印象を与えておる。

そうして、この霊という言葉に、良くないイメージを持ち、良くない響を持ち、不吉なイメージを持って、
自らの肉体であることをよしとしておるのではないだろうか。

まるで、自分の衣服が自分自身であるかのように、鏡に映った自分の姿を誤解する者がいる。

しかし、衣装は衣装であって、人間そのものではないということを知れ。

霊というものの本質を知って生きていくことが、本当の神の心のありかを教えてくれるのである。

人間は、過去、何百回、何千回となくこの地上に生まれきて、
あの世とこの世の間を転生輪廻してきておる存在なのである。

それが、この神が創られた世界の秘密であるのだ。

そしてそれは当然の原理であり、原則であり、誰もが否定できない真実である。

しかし、その真実を忘れ、霊ということを見落としておるのが、ほとんどの人間ではないであろうか。

霊ということを否定することをもって、知識人の代表であるかのように語っておるのが、
現在の代表的な人たちの考えではないだろうか。

霊ということでもって肩をすくめ、霊ということでもって恐れおののき、霊ということでもって線香か抹香か、
そうしたものを思い浮かべるようであっては、人間とははなはだ情ないものである。

それは、自分の本当の名前を忘れ去って、自分の本当の住処を忘れ去った迷子の姿であるのです。

人間は迷子になってはならぬ。あくまでも本当の姿、自分の本名というものを忘れてはならん。

本名はすなわちこれ霊なり。肉体はこれ仮の名なり。

こうしたことを忘れてはならない。

それでは、霊とは一体何であろうか。

霊とはすべてのすべてである。まずこれを知れ。

ただ、この霊の中に、さまざまな霊があり、霊姿がある。

地上におる霊的能力者が、霊を見たと言っても、霊を感じたと称しても、これにさまざまなる、甲乙なる霊姿がある。

ある時には病める霊あり。ある時には病もないのに病を見て苦しめる霊、傷もないのに傷を痛がる霊、
心臓もないのに心臓を病む霊、胃もないの胃が痛いと訴える霊がある。

これらは、霊の本質を知らぬ者だ。



-神の栄光- 4

-神の栄光- 6



category: 神の栄光

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