fc2ブログ

神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -正しき心とは- 1  

心の探求128-184


私はつねづね、人間の本当の姿は肉体ではなく、そこに宿っている魂、心こそが本当の姿であるとお話しております。
では、人間の本当の姿は心であるということはわかった、それならば、そうした事をふまえたうえで、
私たちはどのように生きていけばよいのか、どのような人生を歩んでゆけばよいのか、
そうです、「正しき心」とはいったい何なのか、
そのことについて非常にわかりやすく説明している書があります。
今回は、数回にわけて、その書を紹介させていただきたいと思います。
どうか、よくよく味読していただければ幸いです。


----------

「正しき心とは」という題で本章の話をしていきたいと思います。
まず、人間の心というものを、もう一度根本に遡って、考えてみなければならないと思います。

私たちは、目を覚ましている時間、一日二十四時間のうち八時間の睡眠時間を除いたならば、
残り十六時間ということになりますが、この十六時間の間に、朝から夜までの間、
さまざまなことが心に思い浮かびます。

ただ、何も本格的に考えたりしない人にとっては、
単に心に思い浮かぶということにすぎないわけでありますけれども、
しかし多少なりとも、文学的に、あるいは哲学的に、またある場合には、宗数的に、
物事を詰めて、つき詰めて考えることをやってきた人にとっては、
心のなかに去来する思いというのは、単に思い浮かべるということにはとどまらないわけです。

思い浮かべるということは、たとえていえば、流れゆく川のなかのうたかたのごとき、
泡のようなものであって、流れのところどころで泡ができては、また流れのなかにのみ込まれていき、
またせせらぎでは泡ができ、また流れのなかにのみ込んでいかれる。

一日のうちの時間の流れというものを川の流れというものに照らし合わせてみるならば、
そうしたことがいえるでしょう。

ただ本当に人間の心というものを十二分に掴んだ人から見るならば、人間の心のなかの思いというのは、
本当は、そういううたかたのごとき、泡沫のごときものではないということです。

言葉にはさまざまな表現のしかたがありますけれども、たとえば「考え抜く」という言葉があります。
長時間一つのテーマに関して考えるということです。
これも、ある程度修行を積み、鍛練を積んでいくとできるようになります。

こういうふうに「考え抜く」ということができるようになった人というのは、
まあパーセンテージでいっても、おそらくひじょうに少ないでありましょう。
百人で、二、三人しかいないのではないかと思います。

本当に考えるということができる人は、コーヒー一杯を飲む間にも、さまざまなことを思索し、また思考します。
あるいは、道を歩いていても、禅の歩行禅ではありませんが、歩きながら、さまざまなことを考えることも可能であります。

あるいはこれ以外にも、通勤電車のなかにおいても、あるいは人と話をしている間においても、
ごく短時間に、短時間のうちに、閃きのごとく着想がおりてきて、一つのことを考えることも可能になってきます。
こうした人たちは、心の本質というものを、よく理解しているといえます。

人間は、さまざまな人によって、体は鍛えれば鍛えるほど強くなるということを教えられています。
またスポーツにおいても、訓練すれば、野球であれ、水泳であれ、マラソンンであれ、
それなりの実績が上がってくるということを教えられていますし、
またこれを万人が認めているところだと思います。

しかしながら、心という領域は、残念ながら、長いつきあいがあるにもかかわらず、
等閑にされているところが多いわけであります。
昔から人間は、心というものについては真正面から取り組んできたつもりでありながら、意外に遅れているわけであります。



-正しき心とは- 2

category: 心の探求

tb: 0   cm: 0

心の探求 -正しき心とは- 2  

心の探求128-184


----------


肉体は乗り物、心という運転手こそ主人公

各人、自分の心のなかは、自由に任されているのです。
これを、「心の王国」といいます。

この心の王国を、各人が自治権を持っていて、自分でそれを守り、
自分でそれをおさめていきなさい、ということになっています。

しかし、この自治権というのはたいへんありがたいものであるけれども、
反面からみると、その人の心のなかに他人はちょっかいを出せない、ということであるならば、
逆にどのような心であっても、放っておけるということになってしまいます。

私たちは、この三次元とか、地上界とか、物質界とかいわれるようなこの世を通り越して、
肉体が滅した時に、あの世という世界に入っていきますけれども、この、あの世の世界においては、
心というものは、人間そのものになってしまいます。

地上においては肉体という乗り物があって、この乗り物のなかの運転手としての心があるわけでありますけれども、
この地上を去って、他界をしたときに、あの世に行くところの運転手そのものが、
あなたになり、私になるわけであって、
これ以外に車というものがあるわけでもなければ、乗馬すべき馬がいるわけでもありません。

したがって、心そのものが主人公となるわけです。

そうすると、どうなるかというと、
車の中に乗っていては、運転手がどのような人であるかわからなかったにもかかわらず、
車からいったん降りて、運転手が外を歩くようになると、その人がどういう人であるということは、
だれから見ても明らかになってくるわけです。

つまり、この世を去った実在界においては、人間はだれからも、
その姿と人となりというものを見られることになります。

その人の心の姿は、だれからも見抜かれてしまう、ということになってしまいます。
これが、実在界においては当然のこととなるわけであります。



肩書、知名度、外見美などは、肉体という車の外見にすぎない

けれども、この三次元世界、現象世界においては、車というものを運転しているがために、
車の中の人の姿というものが、フロントガラスを通してしか見えないのでありまして、
実際にどういう人柄か、これがなかなかわからない。

けれども、またそれをいいことにして、車を自由自在に運転しているのはいいけれども、
交通法規を守って正しく運転する人もあれば、交通法規を破って運転している人もおります。
どんな人が中に乗っているか、車の中を見ただけでは、わからないということです。

ただ車のなかにもいろいろな車というのがあって、事故車のような車もあります。
バンパーがへこんでいたり、あるいは、ミラーが壊れていたり、ボディが歪んでいたり、そういう車もあります。

こういう車を見れば、かなり事故を起こしたであろうということ、
その人の運転技術が未熟ではないかというようなこと、
あるいは車自体がいろいろいたんでいたり、汚れていたりすれば、
どうやらその待ち主は、車の手入れをしないらしいということは、外見からも明らかであります。

しかし、そうした外見の特徴以外では、その中身というのは、なかなかわからないわけです。

この車の外見というのが、この世でいえば名剌のなかの肩書でもありますし、                                 
またある時には、収入の額ということであろうし、あるいは、
外見が美人であるとか、凛々しい顔をしているとか、
背が高いとか低いとか、肥っているとか痩せているとか、というようなことになります。

これは、車でいえば車体の特徴そのものであって、
この中に乗っている人がどういう人かということが、わからないのと同じです。


車の外見もだいじだが、乗っている人の運転技術がいちばん大切

ただ車でも、一千万も二千万もするような高級車を持っている人であるならば、
まあ運転手は、おそらくお金侍ちであるか、あるいは地位のある方か、また別の面から見るならば、
そういうふうに豪華にやるのが好きな人か、こういう推測がつくわけであります。
乗っている車種によって、その人の性格というのが、ある程度見極めがつくわけです。

けれども、車は車、どんないい車に乗っていても、運転技術が未熟であれば、
なんの意昧もないことはいうまでもありません。

また、どんないい車であっても、中に乗っている人が、貧相であり、貧弱であって、ドアを開けて出てくれば、
一目瞭然、ガッカリしてしまいます。

いい車に乗って、大会社の社長かと思っても、その車を止めて、中の人を見てみたら、
その人はすぐに見透かされてしまいます。

そういうことであって、人間は、外から見られる姿だけをもって、自己満足に耽ってはならないわけです。
やはり、運転手としての技量を磨き、人物を磨いていく必要があるのです。

この、運転手としての技量を磨き、人物を磨くということが、
心というものをどうしていくか、ということになるわけです。

つまり、心の運転であり、心の操縦であり、また心の作用ということです。

車自体に手を入れることもだいじであるけれども、やはり乗っている人が中心だということです。



-正しき心とは- 1

-正しき心とは- 3

category: 心の探求

tb: 0   cm: 0

心の探求 -正しき心とは- 3  

心の探求128-184


----------

正しい運転技術とは、正確な交通知識を持ち、それに準拠した運転技術を身につけること

さて、では、その運転技術というのは、いったい何でしょうか。
どのように運転すればよいのでしょうか。
これが本章の眼目である「正しき心とは」、ということになるわけです。

通常、運転免許を与えられるためには、二十何時間か、三十何時間か自動車教習所で講義を受け、
実技訓練を受けます。

そうして路上での試験にパスして、その後筆記試験にもパスをして、
初めてライセンスというのが与えられることになります。
そのときに、私たちが学んでいることを、もう一度考えればいいわけです。

それは一つには、学科としての交通法規の学習ということがあります。
これをまず、知識として知らなければ、信号が赤の時に勝手に進んでいいと思って車を走らせてしまい、
あっちもこっちも事故だらけです。

赤のときには進んではならない。青のときには進んでもよい。
黄色なら注意をしなさい、ということですね。
これをすべての運転手が知っているという前提のもとに、運転免許というものも与えられるわけです。

ですから、まず共通の知識、ルールというものを、人間は手に入れなければならないわけです。
このルールを知ってこその運転マナーであり、運転技術なわけです。
いくらハンドルさばきがうまくとも、いくらアクセルをふかすのがはやくとも、
いくらブレーキを踏むのがはやくとも、交通ルールを知らないでは、運転がうまいとはいえないのです。

それは、ひじょうに危険な方です。そういう方を野放しにしておいては、なかなかすみやかな運転もできないし、
事故車、あるいは死傷者というものを、減らすこともできないわけです。

以上の車の例でわかったように、まず正確な法規、交通知識というものを持つこと。
次には、それに準拠した運転の方法、技術というものを身につけるということ。
この二つがだいじであることを私は述べました。

こうして人生の長い長い道筋を、人間は辿って生ゆくのです。


交通ルールとしての「公的』な正しさとは

さてそれでは、今の二つの部分に相当するものは、
人間の心というものに焦点を合わせた時にいったい何であるのか。
この点について、さらに詳しく検計に入っていきたいと思います。

第一点として、交通ルール、法規にあたるものは、いったい何だろうか。
これをまず、私たちは、考えてみなければならないのです。

まず、交通法規を与えられていなければ、
そのルールを知らされていなければ正しい運転ということは無理なわけです。

そのルールとは何でしょうか。ルールがルールである以上、
それは「公的なるもの」でなければなりません。

それでは心の世界において、公的なるものというのはいったい何だろう。
何をもって、公的なものとするのであろうか。

それぞれの人間が、これこそ正しいと言い張っているのであるならば、
それは私的なものであって、公的な考えとはいえません。

公的なるものというのは、結局のところ、
それが唯一の権威あるものから流れ出ているということであります。

では、その唯一の権威あるものとは何でしょうか。
それが、人類が長い間探し求めてきた神ということではないでしょうか。



-正しき心とは- 2

-正しき心とは- 4

category: 心の探求

tb: 0   cm: 0

心の探求 -正しき心とは- 4  

心の探求128-184


----------


神の第一の定義-第一原因者としての神

神ということに関しては、昔からさまざまな研究がされ、探究がされました。
しかし、だれも神とはこうしたものだということを、定義することはできませんでした。

その定義はできないけれども、たとえば、神というものを第一原因というように論ずる人もおりました。 

つまり、物事には原因というものがある。
たとえば、自分が今生きているということは、自分に両親があったということ。
そういう原因があって自分がある。その両親も元を探れば、その両親がいた。
その両親にも両親がいた。こうして探っていくと必ず前者というのがいる。

結果に対しては原因というものがある。そうであるならば、
どんどん、どんどんと探っていくならば、どこかに第一原因というのかあるはずである。
この第一原因こそ神である、ということを証明した哲学者、あるいは神学者もおりました。

神の第ニの定義-奇跡を起こすカとしての神

あるいは、神というものは、とにかく人知を超えたるものであるとして、
さまざまなる奇蹟、霊現象をもって、神の御業とみた人もいました。

神が何であるかということはどうでもよい、
ただ、医者に見離されたこの病人が、一瞬のうちに治ってしまった。
この結果を見れば、この結果を生ぜしめた力があることがわかるであろう。
それが神なのである。
というふうな説明をした方もいらっしやるはずです。
つまり、人智を超えた力をもって神とする説明であります。

神の第三の定義-気高い人格を持った人格神としての神

あるいは第三の定義としては、神をそうした漠然としたものでなくて、
人格あるものとして見てきた歴史もあります。

たとえば、イエス・キリストを神といったり、ゼウスを神といったり、
ブッダを神といったり、こういう定義もあるわけです。

しかし、これらは、まだ彼らにも人間的属性があることを認めざるをえない以上、
定義としては不十分といわざるをえません。

神というものが、この大宇宙を創ったものであるならば、
その神であるイエス・キリストは、何故一メートル七十センチぐらいの肉体に宿って、
三十三年の生涯を送って、十字架にかかったのか。

この地球を創り、大宇宙を創った神が、何故、そういう一人の人間のなかに宿って生きていくのか。
この説明は、ひじょうに困難であろうと思います。

少なくとも、神というのが地球を創り、宇宙を創ったものであるならば、
せめてガリバー旅行記のなかにある小人と巨入の関係のように、
外見上も巨大な人間であってもおかしくはないはずです。
奈良の大仏のように、何十メートルもある入間として出てきてもおかしくはないはずです。

あるいは、地球を手玉に取るような、大きな巨人の神があってもいいはずです。

それが両親を侍った一人の人間の赤ん坊として生まれるという事実をともなったために、
ひじょうに複雑な考え方となるわけであります。

ただ結論をいうならば、この三つの定義、
第一原因としての神、
あるいは奇跡を起こす力としての神、
通常の人間とは思えないような、気高い人格を持った、人格神としての神、

こうしたいろんな定義があるけれども、共通していることは何かというと、
「崇高な」という形容詞がつくということです。

「崇」という字は「崇めたてまつる」ということです。
つまり、技きん出たもの、上にある者として認めるという意味が、「崇」という字になります。

「高」という字も同じです。
「高し」と書いてあります。
「高し」ということも、結局比ぺてみて、「極だっている」ということです。
したがって、崇高な、という形容詞がつく神というものは、やはり人間ならざるものであって、
人間の想像を超え、想像を絶したような、偉大な力を持っている存在、ということになりましょう。



-正しき心とは- 3

-正しき心とは- 5

category: 心の探求

tb: 0   cm: 0

心の探求 -正しき心とは- 5  

心の探求128-184


----------

神の存在証明①
  この世の中のすべてのものは創られたるものとしての痕跡がある


こうした方、第一原因者としての神がいられるか、いられないか、
これを人間はしっかりと掴むことができないけれども、
先ほど言った定義も、またこの神の存在を補強するための、証拠づけるための、材料であることは事実です。

結果に対しては原因があるということを考えれば、やはり、
この世界を創ったものがあると考えることは、常識的に考えても筋が通っております。

この世界を偶然にできたと考えるのは、最近の流行ではあるけれども、
これはある意味で、長い目、あるいは広い目で見るならば、異常な思考といわざるをえません。

偶然に人間ができるでしょうか。
人間がアメーバーから偶然に進化してくるでしょうか。

人間というものは、いってみれば、超高層建築のようなものです。
四十階建て、五十階建ての高層建築のような、目的性を持ったしくみを持っているのです。

ところが、現在の進化論の主流というのは、
偶然の連鎖によって人間ができていると、
現時点の肉体と精神を持った人間ができていると主張しております。

これはいってみれば、コンクリートのかたまりや砂や砂利や、あるいはプロックとか、
鉄筋とか、こういうものが転がっていて、偶然に風が吹き、偶然に雨が降って、
コンクリートがこねあげられて、そして、いつの間にか鉄筋が積み上がって、
つまり、偶然に地震か何かで鉄筋が積み上がって、そして超高層ビルができた、というのと同じなのです。

人間のしくみの複雑さを知れば知るほど、
それが偶然に、そういう材料の寄せ集めでできたものでないことは、明らかであります。

それは、目的性を持っているのです。

人間の肉体だけを見ても、DNAとかRNAとかいうような、遺伝子の情報システムによって、
人間の肉体ができているということが、生物学によって解明されているけれども、
これをもってしても説明とはなっていないのです。

なぜ両親からDNAとかRNAとかいうような遺伝子の情報が伝えられるのか。
この情報とは、そもそも何なのか。
この分析ができていないのです。
偶然にそういう情報が伝わると考えるのは異常であります。

これは、今の例でいうならば、五十階建ての超高層建築ができたなら、
その設計図を窓からひらりと落としたならば、
隣にもまた同じようなビルが建ったということと同じようなことになります。

遺伝子情報があるからといって、まったく同じものができるという、
その不思議そのものを探究しなければ、意味がないわけです。

ビルの設計図を落としたところで、もう一つのビルは建たないのです。
ビルを建てるためには、その設計図を見て、それを造る人がいなければ建たないのです。
そういうことだと思います。

したがって、第一原因論としての神というものも、合理性があるわけです。
すべてこの世のものは、創られたるものとしての痕跡がある。

それは、生きているものもそうであるし、生きていない鉱物や、あるいはいろんな建造物にしても、
原因者としての創った者がいる。
それならば、第一原因者としての神というのを考えるのは当然ではないでしょうか。



-正しき心とは- 4

-正しき心とは- 6

category: 心の探求

tb: 0   cm: 0

QRコード