fc2ブログ

神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

谷口雅春霊言集 -天上界へ帰る- 1  

谷口雅春霊言集128-184


今回は、谷口雅春霊言集の中から、天上界に帰るという章を紹介したいと思います。

谷口雅春という方は、生命の実相すなわち、人間の本質は神仏と同じであり、
光り輝く神の子であるという思想のもとに、人類光明化運動を推し進められた方であります。
その方が帰天されたのちメッセージを送られたものが、今回紹介する本書であります。

本来ならば生命の実相というものの真髄を紹介するべきところではありますが、
本書には、私たち人間が死後、どのような世界に赴いていくのかということを非常にわかりやすく、
なおかつ平易、そして具体的に説いてあります。

多くの人にとっては、むしろそちらの方が知りたい内容ではないかと考え、
以下に、その内容を紹介させていただこうと思います。


----------

あの世の実感

まず、人間の死ということに関してであるが、
まあ、たいていの人間は、死の瞬間、自分というものの意識が混乱に陥っており、
そして、自分がいざ肉体を離れるということにおいて大変な驚愕をするものである。

なぜならば、死後の世界というのは、まったくの未知の世界であり、誰からも教わったことがなく、
また、ほとんどの人は書物においても、死後の世界をさほど学んでいないことが普通だからである。

たまには宗教心ありて、あの世のことどもを学んだとしても、
あの世のことどもを語っておる宗教書はなにぶんにも古いものが多く、千年、二千年前の仏教書であったり、
あるいは、二千年前のイエスの教えから一歩も前進しておらぬキリスト教であったりするのだ。

たとえば、キリスト教徒であるのなら、二千年前のイエスの教えのままに、
自分はイエスを信じてきたから永遠の生命を受けることができるのであるか、あるいは、
炎の炉のなかに投げ込まれる野の草花の如く燃えつきて、その身、その命を失うものであるか、
そうした審判というものを恐れて、わなないておる者もいる。

あるいは、仏教徒として死に、そして自分が野辺の送りとなり、
坊主が来て読経する姿を見て、どうやら自分は死んだらしいということに、はじめて気づく者もおる。

だが死んだ者の一様に思うのは、自分が日蓮宗であろうが、あるいは浄土真宗であろうが、
そうしたことに関わりなく、経文というものをあげられるのであるが、
その意昧がさっぱりと分からないということである。

お経をあげるということによって、自分が、すでにこの世の人間ではないということは、
すべての人間が気づくのであるが、いかんせん経文をあげる本来の意味が失われている現今においては、
坊主の一時間、二時間の経文は、彼らにとっての救いとはならんのである。

死んだばかりの霊たちは、そうした経文に一生懸命耳を傾けておるのであるが、
それによって悟りを開くこともなく、それによって救われることもない。

やがて自らの肉体が焼かれ、骨壷に納まり、墓に納まり、線香をたてられ、
写真を飾られ、鐘を鳴らされる。
人々が水とかお茶とか、あるいは御飯とかをまつっている、その姿を見て途方に暮れるのである。

自分は死んだばかりであって、食べ物をまつってくれても、それを食べることができない。
山のように果物を積んでくれても、それをどうすることもできない。
死んだことは分かったけれど、死後の方針がたたないというのが、大体の事実なのである。



category: 天上界へ帰る

tb: 0   cm: 0

谷口雅春霊言集 -天上界に帰る- 2  

谷口雅春霊言集128-184


-------------

死後の世界のガイダンス

そうして地上を、たいていの人間はまあ四十九日というが、実際は二十日乃至三十日であって、
そのくらいはただよっておるのです。

そうして初七日が終わったあと、まだ悲しみにくれている遺族とともに、
まだ家のなかにとどまっては、共に生活をしているようなつもりでいることが多いのである。

しかしその二十日、三十日の間に、彼らは徐々に霊としての自覚を持つようになる。
そして、自分が今や飲まず食わずとも、生きていかれることを当然のこととして感じるようになる。

そしてまた、地上の人々にいくら話しかけようとしてもその声は聞こえず、
いくら肩に手をかけても、その手が肩を通り抜けて、彼らを驚かすこともできなければ、
彼らに気づかすこともできないということを悟るのである。

たいていの霊は、もうこれ以上この地上にとどまっても自分は生活を送れないということに気がついてくる。
そのころを見計らって、本人の守護霊というものが迎えにくるのである。

そしてその死の自覚を十分にさせるために、
本人の父親なり母親なり、姉なり兄なり、叔父なり、叔母なり、
すでに身内の者であってこの地上を去っているものを共につれてきて、
その者をして死後の世界を語らしめることがほとんどである。
それからあの世への門下生としての初歩を教えるのである。

それはちょうど、小学校にあがる前の子供たちの姿に似ている。
この春、三月、桜が咲かんとしているときに、親たちにランドセルや教科書を買ってもらう、
学校にあがる前の子供たちの姿にも似ていようか。

この地上でいかに偉大なる人物としていばっておった者であっても、死ねば、あの世では赤子同然だ。
あるいは小学生の最下級生にも及ばぬような霊知識しか特っておらぬ。

問題は、この地上にいたときに驕りたかぶっていた人たちである。
彼らは自分が社長であったとか、一国の大臣であったとか、役所の偉い人間であったとか、
警視総監であったとか、あるいは学校の校長であったとかいう人たちだ。

つまり、この世的には、昇りつめたということで、
人に対して訓辞を垂れ、教えることのみを当然としていた人であるわけだが、
他界して後、小学生の最下級生になることに、戸惑いをおぼえ、狼狽するのである。

イエスは言った、「心清き人は幸いである。汝等は神を見るであろう。」そういうことを言った。
有名な山上の垂訓でいくつかのお教えをイエスは言った。

この世で小さき者は、あの世で大きくなり、この世で大きな者は、あの世で小さくなるとも言った。
己れを低くする者は高くされ、己れを高こうする者は低うされるとも言った。

それはまず、この最初の死の関門において、その言葉は実現するのである。
すなわち、この地上において己れを大きな者と思っておった者が、あの世で自分の小ささに気がつき狼狽する。

しかし、この世において、謙虚に自分を見つめ生きてきた者は、あの世に帰りて、その謙虚さ故に学習が進んでいくのである。

自分の小ささを知っている者は幸いである。彼らは大きくなるであろう。
自分の小ささを知らない者は災いである。
彼等は他界して後、大いなる辛酸をなめる。

こうして死後十日の間に、自らの守護霊、そして縁者の者たちの話を聞きながら、
人々は徐々に死後の世界のガイダンスを受けるのである。



category: 天上界へ帰る

tb: 0   cm: 0

谷口雅春霊言集 -天上界に帰る- 3  

谷口雅春霊言集128-184


-------------

反省と進路決定

二十日、あるいは三十日たち、時期が来たときに、人によって違うが、指導霊がやがて訪れて来るのである。
守護霊というのは大体、本人の霊格と同じレベルの魂であるが、
これとは別に一段と霊格の高い霊が、その者を守っておるのである。

これが指導霊であるが、この指導霊というのが迎えにくる。
そして守護霊と共にその死んだばかりの魂を、まず、あの世の収容所へとつれていくのである。

これはいわゆる四次元といわれている世界、幽界といわれている世界である。
まだこの世界では、この世的色彩がずいぶん強く、人々は地上的な生活を営んでおる。
そして、まだ家族単位で生きているような者もおる。

この地上にある物はほとんど、その幽界世界にもある。そしてその生活のなかで、
少しずつ自分の魂を見つめるようになっていくのである。

やがてその幽界世界に帰って、早い者ではほぼ三日、遅い者では、まあ九十曰くらいであろうか、
その間に必ず自分が入間として生きていたときに心のなかに去来したことども一つ一つを、
反省することとなっておる。

この反省の仕方は、その人の思想、心情、あるいは宗教において多少異なった色彩を帯びておるが、
その人が仏数的な人であるならば、仏教関係の僧侶という者がやってきて、仏数的に反省の功徳というのを諭し、
やがて本人を反省に導いていくのである。

その魂がキリスト数的な魂であるならば、教会の牧師がやって来て、その者に懺悔を勧めるのである。

あるいは、生きているときに宗教というものに無縁であった人に対しては、
教育者のような者が出て来て、その人を道徳的に諭していく。

このようにして、自分の生きてきた六十年、七十年の生涯というものを、反省させていくのであります。

その際、人によっては、あなた方が知っているように、
過去を照らす鏡というものによって、自分の全生涯を見せられる場合もある。
ただ、これは幼稚な段階であって、そういうことをする必要がある人に対してなされるのであり、
霊的自覚が進んでいる者に対しては、そうしたことは、もはや、なされない。

そして、この幽界のなかで三日から九十日間の反省が終わったならば、
それぞれの人間は、自分の行くべきところを定めるのである。

これは決して閻魔大王のような者がいて、行き先を指定するわけではない。
ただその反省の期間において、自分の本質というものをたいていの人間はつかむのである。

そして自分の守護霊、あるいは指導霊に対して、今後の身の振り方を相談することになっておるのである。

やがて地獄に行けば、その反省のときのことを忘れているのであるが、
少なくともその段階においては自分が天国に行くべき霊か、地獄に行くべき霊かということは、
自分自身で判断できるようになっているのである。

どうやら自分が地獄に行くべきだということが分かったときに、守護、指導霊と相談の上で、
どうしたことが自分のいちばんの誤りであるかということをはっきりさせる。

そして、自分の誤ったことを修正するのに、いちばんふさわしい地獄へと赴いていくのである。
これは、あくまでも自分の判断で赴いていくのである。

ただたまには例外がおる。
私は、今、一般的な人間の場合を言ったのであるが、本当の悪人は、本来はそうした者はないのであるが、
霊的な眼で見て、生きていたときに多数の悪霊たちにとり憑かれ、
そして本人も生きている悪霊さながらの生活を送った者は、
そうした者に憑かれたまま、四人、五人、六人の悪霊に憑かれたままに、
まっさかさまに地獄に堕ちるという現象があることも事実である。



category: 天上界へ帰る

tb: 0   cm: 0

谷口雅春霊言集 -天上界に帰る- 4  

谷口雅春霊言集128-184


-------------

魂の比重について

あの世の世界というものは、あなた方が知っているように、様々な霊層に別れておる。
その霊層というものは、決して人間をランクづけしようとしてあるのではないのである。

それは物理学的な法則に基づいて、物理学的なる法則に随順して、そのような往み分けが行なわれるのである。
つまり、これは魂の比重の問題として話すことができると思う。

たとえて言うならば、上澄み液のようなものである。
水のなかに灰なら灰を混ぜてかき混ぜると、しばらくすると灰は下の方へと沈んでいく。
いちばん底には黒い物が溜まるであろう。

そしてだんだんに色が薄くなってきて、最上層では澄みきった水があるであろう。

しかしその段階をよく見るならば、澄みきった水から真黒な灰まで幾層か分かれている。
なぜそのようになっているかと言うと、重いものが下に沈んでおるからである。

重いものとはなんであるか。
それは、この地上的なる、物質的なる思いを魂につけたる者は、
比重がこの世的なものであって重いということだ。
そうしたものが下に沈んでいく。

これに反して、この世的なものの少ない者、あの世的なる魂は比重が軽いために、上へ上へと浮いていく。

したがって、魂というものは、意志決定という面で見れば、自己の判断によって赴くべき処を変えるのであるが、
物理学的に見るならば、その魂の比重に合わさった処へと赴いていくのである。

また別のたとえをするならば、人間の魂というものはエネルギー体であり、
一つの電磁波であり、一つの波動であるのだ。

そしてその波動は、きわめて荒い波動を体現したるエネルギー体たる魂は、
そうした世界にその波動が通じてしまう。

また、精妙な波動を体現したる魂は、精妙なる世界へとその波長が合っていくのである。




category: 天上界へ帰る

tb: 0   cm: 0

谷口雅春霊言集 -天上界に帰る- 5  

谷口雅春霊言集128-184


-------------

あの世の世界は波長の世界

あの世の世界は、いわば波長の世界なのである。
あなた方はともすれば、目に見えない地獄というものがあり、目に見えない天国があり、
そうした国が厳然とあって、そこで人間が居住するかのように思っておるであろう。

しかしそれは、人間的感覚によって分かるような比喩であり、物体であるのだ。
本来の世界は波動の世界であり、その波の世界なのである。

荒い波動の世界、つまりこの世界に生きている者は、
たとえば、テレビという受信装置を使ってその映像を受信するならば、
地獄という映像がテレビに映るのである。

また精妙なる波動を放送している、その電磁波に同調している魂というものは、
たとえばテレビで受信するならば、非常に美しい世界を映し出す。天国的な映像を映し出す。

こういうものであって、あなた方の身のまわりにももちろん、目に見える電波、
目に見えない電波というものが行きかっておるのであるが、
普段、その存在には気がつかぬであろう。

しかし、これをラジオ装置なりテレビ装置なりを設けるならば、
その像を受信することができ、その声を開くことができる。

その電磁波をラジオに収録し、その波長に合わせたならば、それはあるときは地獄の呻き声となり、
あるときは天使のコーラスとなる。
またあるときは、地獄的な地獄絵図がテレビに展開され、あるときは、牧歌的な天国の姿が映るのである。

あの世の世界はこういうものであって、物理的なる国としての天国、地獄があると思ってはいけないのである。
あくまでも波動の世界であり、波長の世界であるということだ。

それを人間的にとらえるがために解釈し直して、
天国、地獄という人間的なる者が往んでいる世界として表現をしているのである。
これを誤解してはならない。

このようにあの世の世界というものは、この波長の世界、
波動の世界が非常に精妙に区別されており、波長の合わない者同士は同通しないことになっている。

すなわち個人の織りなす人生の波長によって、個人の魂が響かせる人生の調べによって、
音楽によっていくべき世界が異なってくるのである。
これ、あるときは如来界、これ、あるときは菩薩界という。
これ、あるときは神界と言う。あるときは霊界、幽界というのである。

これも、そういった世界があるというよりは、そのような波長の、波動の世界があるということだ。

したがって、この世を遥かに去った世界があるというよりは、
この世界をいろいろな電磁波が飛びかっておるように、
そうした世界が混在してこの三次元のなかにあるということだ。

四次元の世界は三次元のなかにあり、四次元のなかに五次元があり、五次元のなかに六次元がある、
このような多重構造の世界となっているということだ。これを間違ってはならぬ。

一時代前のように西方浄土に阿弥陀如来が住んでいて、念仏をとなえたる者が、
その西方浄土にて、阿弥陀仏と一緒に生活できるわけではないのである。

このように地上の人間のまず考えるべきことは、その人間の五十年、六十年、七十年の生涯において、
その人間が一生を通じて織りなしたハーモニー、波長、曲奏、そうしたものが、あの世に反映されるということだ。
これには、例外はない。

この地上であらゆる限りの悪をつくして生きて、あの世で天国に楽しんでいることもなければ、
この世で本当に天使のように生きて、あの世で地獄の底にのたうちまわることもないのである。
そうしたことはありえない。

ただ、この世で天使のような顔をして教えを説きながら、
その内面は非常に地獄界を展開していたがために、人からは聖人と言われながら、
地獄でのたうちまわっている宗教家たちは数多い。

また、この世においては自らを悪人だと思っていたにもかかわらず、
あの世において聖人と列せられている人も数多くいる。

たとえば親鸞だが、親鸞は生きていたときに、
自分の悪業、悪人としての性格というものを徹底的に見つめたであろう。

晩年の彼は地獄に堕ちるのではないかと恐れていたはずである。
家人たちもまた、それを恐れていた。
しかし彼は、地獄へは堕ちなかった。

彼は天上界で今、やはり光の天使として生きている。立派に生きている。

このように本人の自覚とは別に、ちゃんとした法則があって、それに基づいて、
高級なる波長と低級なる波長というのが分けられるのである。
まず、それを考えておかねばならない。

それは本人が自分が高しと思っても高くないのと同様、低しと思っても低くないのもまた、神理である。

-------------

いかがでしたでしょうか。
五回にわたって、天上界に帰る、という内容を紹介させていただきました。

私たちが死後、どのような世界の赴くのか、それを感じ取っていただけたなら幸いです。
このことは、遅かれ早かれ、すべての人が体験することであるのです。

私たちの本来の姿は、肉体ではなく、そこに宿っている魂であり、心であり、
死してなお、生き通しの、永遠の生命をもった存在なのだということを、片時もわすれずに
日々精進していっていただけたらと思います。




category: 天上界へ帰る

tb: 0   cm: 0

QRコード