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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

黄金の法  -転生輪廻について-  

黄金の法120-175


私達の本来の姿である魂は、この世での何十年かの修行の後、肉体を脱ぎ捨て
実在の世界である、あの世に還ってゆく事となります。

そして、あの世での何百年かの修行をへて再びこの世に生まれ変わってきます。
私たちは、永遠の生命を持って生き続けているのです。

そして、そうであるなら
今現在、この世において魂の修行を行っている以前は実在の世界にいたわけであり、
そしてそれ以前にも、この世での生活を送っていたはずです。

生まれた国は違うかもしれません、生活環境も当然異なっていたでしょう、そして
まったく違う職業についていたかもしれないのです。

前世、そして前々世という様にあの世とこの世の間を、無限の転生を繰り返しながら
魂の修行を行ってきたのです。

私達の魂にはそうした前世、前々世そしてそれ以前の記憶がはっきりと刻み込まれているのですが、
肉体を持ってこの世に生まれてくる事により、その記憶を一時的に忘れてしまったのです。

そして新たにゼロからのスタートをする事により、この世での新たな魂修行が
始まる事になるのです。

そして、何十年かのこの世での修行の後、あの世に還れば、
その記憶を思い出すことができるのです。

この様に、私達の本来の姿は心であり魂であって、この世とあの世を転生輪廻しながら
永遠の進化をめざしている、すばらしい存在であるのです。

肉体がすべてであって人生は一回きりであるという誤った執着は捨て去らねばなりません。
どうか、こうした真実の世界観を心に刻んで生きていって欲しいと思います。

それでこそ、私達は真に幸福な人生を生きてゆく事が出来るのです。


category: 黄金の法

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黄金の法 -心の原理-  

黄金の法120-175



私たちは、肉体として、ある時突然に母親のおなかの中において生命を受け、
そして、肉体としてこの世に生命を受けたならば、その数十年の人生を生き、そして寿命がつきたのち、
お葬式をされ、焼き場にてその肉体を焼かれてしまえば、
それですべてが終わってしまうのだと思っておられる方が多いでしょう。
ほとんどの人びとが、人生はこの世限りであり、肉体がすべてであるのだ、といわれる方が多いでありましょう。
しかし、私がここにて申し上げているように、そうではないのであります。
それは間違った考え方なのであります。

私たちの本来の姿は、霊であり、魂であり、心であるのです。
はるかなる昔に、神の光が燦爛してできた光そのものであるのです。

私たちは、あの世の世界では、霊として存在しているのです、魂として生きているのです。
霊という言葉に違和感があるならば、意識体といってもよいでしょう。
私たちは、あの世の世界においては、意識として存在し、意識として、念いそのものとして生活しているのです。

あの世の世界では、心の中はすべてガラス張りであり、心の中で念っていることは、すべての人に見えてしまいます。
つまり、その人がどのような思いでもって生きているのか、どのような心の持ち主であるのかが、
姿かたちとして現われるようになっているのです。
念いの姿が、心のあり方が、その人の姿かたちとなって現われる、そのような世界なのです。

高貴な念いの持ち主であるならば、その人は、気高い、高貴な姿として現われてくるでしょう。
愛に満ちた、光に満ち満ちた、人びとを救済しないではやまないという心の持ち主であるならば、
それは、光に満ち満ちた姿となって、天使そのものの姿として現われてくるでありましょう。
そうした世界が、あの世の世界であり、実在の世界の真実であるのです。

そして、あの世における心のあり方を決めるのは、
今、私たちが生きている、この世の世界において、どのような思いでもって、どのような心でもって、
この世界を、わずか数十年の人生を生き抜いたかにかかっているのです。

この世の世界は、それは厳しい世界であります。
天使のような心をもった人たちばかりがいるわけではありません。
それは、さまざまな心をもった人たちがいるわけであり、
そうした人びとの中で、非常に厳しい精神生活をしいられる事もあるでしょう。
しかし、あえてそうした厳しい環境の中において、天国的な生活を送れたならば、
すばらしい心でもって生き抜いていけたならば、死後、光に満ちたすばらしい世界に還ってゆけるようになっているのです。
これが、私たちが生きている世界の真実なのです。

この書には、過去の偉人の転生の歴史が書き綴られています。
私たちは、永遠の生命を持って転生を続けているのであり、さまざまな時代、さまざまな地域、
さまざまな異なった国における転生の記憶を持っているのです。
さまざまな環境、さまざまな文化、そして、その人生の中において、さまざまな異なった職業を経験しているでしょう。
そうした、すばらしい環境の中で、永遠の進化を続けてゆけるのです。

どうかこうした真実を心に刻んで、日々生きていってほしいと思います。
そうしたならば、必ずや光り輝く未来がみなさんに訪れると信じております。


category: 黄金の法

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黄金の法 -あの世とこの世の関わり(釈迦の教え)-  

黄金の法120-175


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一番目の柱とは、実相世界と地上世界、すなわち、三次元の現象世界との関わりです。

釈迦が、常々説いていたのは、こういうことです。

人間には、生まれて来る前にそこにおり、死して、またそこに還る永遠の実相、実在世界があり、
この世は仮の世にすぎないのだ。

実在の世界が、根元の神仏の創造意思によって現出したように、
この三次元世界も、実在の世界の投影にすぎず、我々人間は、影絵の世界に住んでいるようなものである。

この影絵の世界、仮の世界こそ唯一の世界だと錯覚して、人びとは、地上に執着を持ち、
さまざまの苦しみをつくってゆくのである。

この苦しみから逃れるためには、自分が本来いた実在の世界を想い起こすことだ。

そして、物質人間の執着を断って、本来の実相人間になることだ。

さすれば、そこに生の苦しみなく、老いる苦しみなく、病の苦しみもない。

そこにあるのは、ただ歓喜の世界であり、光きらめく光明の化身としての人間なのである。

人びとよ、このことを、まず、悟りなさい、と。

これが教えの最初の柱でした。


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category: あの世とこの世の関わり(釈迦の教え)

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黄金の法 -原因あれば結果あり(釈迦の教え)-  

黄金の法120-175


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教えの二番目の柱とは、時間論です。

第一番目の柱を空間論とするならば、二番目の柱は、時系列的なものの考え方にあります。

そのひとつが縁起の法です。

この現象世界、実在世界を貫く法則は、原因と結果の法則であり、
あるできごとと次なるできごとを結びつけるもの、あるいは、ある人と次なる人とを結びつけるものを縁と言います。

そして、すベてのものごとは、この緑によって生ずるのです。

しかも人間は、永遠の時間の流れのなかで生まれ変わり続けていくという
転生輪廻の法則から逃れられない存在なのです。

この転生輪廻も、原因あって、結果ありの因果の法則に支配されております。

来世がどのような世界で、どのように生きるかは、今世をどう生きるかにかかっており、
今世の自分の魂の傾向とか、自分がおかれた環境などは、前世に起因しているのです。

しかし、逆に言うならば、今世を素晴らしく生きることによって、輝ける未来世が約束されているのだと言えます。

ですから、悪しき因縁の循環を断つためには、今世において努力精進し、
運命に翻弄されている自分の生活を立て直す以外にないのです。

これを解脱と言います。

そして、運命に支配されない金剛不壊の自分を発見することを悟りと言うのです。

しかも、悟りによって如来の境地に達すれば、人間は、因果の法則で転生輪廻することから解放され、
自分の自由意思によって、転生をすることが可能となります。

こういう教えが、二番目の時間論なのです。


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category: 原因あれば結果あり(釈迦の教え)

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黄金の法 -反省の基準(釈迦の教え)-  

黄金の法120-175



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三番目の柱は、八正道。これは、人間完成の道であり、修行者の努力精進の目安となるものです。

人間は、赤ん坊としてこの世に生まれると、実在界のことをすっかり忘れてしまいます。

すなわち、わずか一〇パーセントの表面意識だけを頼りに生きてゆくのであり、
残りの九〇パーセントは、潜在意識となって隠れてしまうのです。

しかし、インスピレーショソという形でのみ、実在界に残してきた自分の本来の意識を、
わずかに感じ取ることが可能だと言えます。

この潜在意識と、表面意識を分離しているものが、想念帯のなかの曇りです。

ですから、この曇りを取り除かない限り、本来の自己、すなわち、
一〇〇パーセントの自己を取り戻すことはできません。

心のなかの想念帯の曇りとは、生まれてからこのかたに至るまでのゆがんだ環境、教育、思想、信条、習慣、
あるいは不調和な想い、良心に照らして恥ずべき行為などによって、形づくられます。

ということは、自分が生まれてから今までに生きてきた歩みを振り返り、不調和を心のなかにつくった原因を追究し、
そうしたものをひとつひとつ反省することが大切だと言えます。

そして、その反省の基準が、この八正道、正しい八つの道なのです。

まず、自分はものごとや縁あって出会った人びとを正しく見てきただろうか。

次に、正しい言葉を話しただろうか。人の苦しみの原因のほとんどは、
無造作に他人から投げかけられた言葉や自分の発した悪しき言葉にあるのです。

しかし、正しく言葉を使うということを、自分はしてきただろうか。

さらには、正しく思うということ、これが大切です。思いは、悍馬のごとく荒々しく乱れ、
いっときとして、清浄であったことはなかったのではないか。

自分の心を透明なガラス箱だとすると、人に見られたら恥ずかしいような思いでいっぱいではなかったか。

また、正しい生活ということに関して言えば、どうでしょう。
自分は、この世を人生修行の場だと考えて、一日一生のつもりで正しく生きているだろうか。

神理を心の糧として、調和された生活をしているだろうか。

あるいは、自分は正しく仕事に励んでいるか。職業は、神から与えられた感謝行であり、使命なのです。
しかし、その使命をまっとうしているでしょうか。

あるいはまた、自分は、正しく道に精進しているか。神仏の子として迷っていないか。
常に神理の勉強を怠らず、自分を磨いてきたでしょうか。

そして、正念だ。正しい人生計画を描いてきたか。正しく神仏に祈ったか。
神仏の前で恥じないような正しい自己実現を考えているでしょうか。

最後は、正定です。
自分は、精神統一の機会を持っているか。

精神統一のはんとうの意味は、無念無想になることではなく、実在界から神の光の供給を受けることであり、
自分の守護・指導霊から導きを受けることなのです。

そして、これは、修行者として、欠くことのできない勉強の方法なのです。

こうした八正道を規準に、人間は、過去を反省し、未来を築いてゆくべきだというのが、三番目の柱です。


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category: 反省の基準(釈迦の教え)

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