孔子の霊言 -心の中の理想郷- 
2014/02/02 Sun. 16:19

理想郷とは、いったいどのような所でしょうか。
理想郷について、さまざまな考え方や、定義があると思いますが、
やはりそこは、幸福に満ちた、幸せに満ちた所ではないかと思うのです。
それでは、みなさんにとっての幸せとは、いったいどのようなものでしょうか。
どのような事を幸せと考えられておられるでしょうか。
たくさんお金をもうけることでしょうか、おいしいものをたくさん食べることでしょうか。
大きい家を建てることでしょうか、会社で出世をすることでしょうか、世間的に有名になることでしょうか。
しかし、こうしたものは、やがて時がたてば無くなって行く物です、失われてゆくものなのです。
私たちの本来の姿は、肉体ではありません、その肉体に宿っている心こそが、本来のすがたなのです。
やがて時がくれば、肉体は失われてゆきますが、心は無くなることはありません、
永遠の生命を持って生きつづけているのです。
その永遠の生命としての、本来の心としての幸福とは、いったいどのようなものでしょうか。
それは、自らが進歩向上した、と思える時ではないかと思うのです。
自らが価値ありと思う方向において、進歩向上し、より一段とすばらしい存在になった時ではないでしょうか。
そうした時に、私たちは魂としての、心としての幸福を感じるのではないでしょうか。
では、ここで見方を変えてみるとどうでしょう。
見る立場を変えてみた時、自らが進歩向上したことが、まわりに対してどのような影響を与えているでしょうか。
自らが進歩向上したことが、まわりの人たちを害していないかどうか、傷つけていないかどうか、
他の人々を不幸にしていないかどうか、多くの人々の犠牲の上での向上であったのではないのか。
こうしたことを、よくよく点検してみる必要があるのです。
もし、そうしたことであったなら、本来の向上ではない、本当の幸福ではないのです。
本来の進歩向上とは、自らがそうなっていく過程において、より多くの人々を幸せにしてゆけるような、
他の人々を幸せにしてゆけるような、そのような進歩向上でなくてはならないのです。
自らが、すばらしい存在になることにより、他の人々の悩みを断ち切り、多くの人々の苦悩を癒し、
たくさんの人々の幸福を、より増してゆけるような、そのような大調和の中での進歩向上であってこそ
真の幸福であるといえるのです。
この世を去った、はるか高次元の心の世界、霊天上界には、そうした世界が存在しています。
そこでは、すべての人々が、おおいなる神の愛に感謝し、一人でも多くの人々を幸せにするために、
一人でも多くの神の子たちを救うために、すべての時間を投入して悔いのない、そうした活動を行っています。
より多くの人々を幸福にすることが、最大の幸福である、そうした人々の世界が、理想郷が現実に存在しているのです。
では、地上にいる私たちをして、そうした大調和の世界を、理想郷を創るには、いったいどうすればよいのでしょうか。
いったい、どこに創ってゆけばよいのでしょうか。
それは、まず、自らの心の中に、そうした理想郷を創ってゆくことです。
みずからの心の内に、そうしたすばらしい世界を創ってゆくことです、それが出発点であるのです。
そうして、自らの心の中にできた理想郷が、自らの家庭に広がり、近隣に広がり、そして、その国に広がり、
やがては、全世界に広がってゆく、これが本来の理想郷のあり方であると思います。
どうか、みなさまも、そうした日々を送ってほしいと思います。
そうすれば、必ずや、この地上に理想郷を打ち立てることは可能であると思います。
category: 孔子の霊言
孔子の霊言 -調和とやすらぎの世界- 
2015/02/01 Sun. 16:45

前回のお話では、私たちが死後、まず最初に足を踏み入れるであろう世界、
「四次元の世界」を紹介いたしました。
天国にはこの先に五次元の世界、六次元の世界というように、まだまだ先があるのであり
この四次元は初歩的な段階ではありますが、天国とはどのようなところかということを
垣間見れたのではないかと思います。
この天国とは、どのような世界かということについて、また一つお話しておかなくてはいけない事が
ありますので、今回はその書を紹介しようと思います。
天国とはいったいどのようなところか、それは、調和とやすらぎの世界である。
調和とやすらぎに満たされた世界である、そのように言えると思います。
今回紹介する孔子の霊言という書の中には、孔子だけでなく、さまざまな聖賢の霊言が収録されており、
その中に老子の霊訓という一節があります。
老子とは古代中国にて「無為自然の道」ということを説かれた方ですが、無為自然の道とはいったい何かを
解き明かされている中で、調和とやすらぎに満ちた天国の描写があるのです。
人間は神の子である、そのありのままの姿に気づくこと、私たちの魂は神によって創られた
すばらしい存在であることに気づくこと、神様から愛され、期待をこめて創られ、そしてその命を与えられた
その喜びに気づくこと、そのすばらしさにどうか気付いてください。
そうしたならば、幸せになるために多くのものは必要ないはずなのです。
多くのものを望まず、多くの欲を欲せず、神様から与えられた自分の人生を魂を味わいながら生きてゆく、
ゆったりと自然の懐の、神の懐の中に抱かれながら生きてゆく。
それが、老子の言っている「無為自然の道」だと思います。
そして、すばらしい命を、かけがえのない魂の光をきらめかせながら生きてゆく、
そしてそれは、自分だけではない、他のすべての人も同じ神の子なのです。
その神の子たちの個性の光を尊重しながら生きていく、神の愛がぎっしりとつめられて創られた存在なのだということを
共に認め合い、尊敬しあい、感謝しあって、尊重しあって、手を握り合って生きていく。
そこに大調和の世界が現われてくるのだと思います。
では、以下にその一節を紹介しようと思います。
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聞き手 老子先生がさきほど申されました、知識を積むのではなく、埋もれた宝塔を、その宝塔
の被っている砂を払って宝の塔を生み出してくるのだ、というお説でありますが、
そのこと自体は一つの比喩であろうと思いますが、その埋もれた砂を払うということは、
具体的に言えばどういう心的作業がありましょうか。
老子 一つはあなた方、これもまた比喩になってしまいますけれども、冬の日にですね、
非常に暖かい一日というのがあります。これを小春日和といいます。
こういった日に丘の上において膝を組んで大きな空を眺めてみると白い雲がポッカリ浮かんで
まるで春のような気持ちの日射しです。また犬や猫たちも非常にのどかな風景を楽しんで居ります。
また様々な花が咲き乱れているかのような幻想にうたれることがあります。
このようなすがたは、実は天上界そのものなのです。
あなたは私達の世界が一体どのような世界かご存知でしょうか。
私たちの世界というのは、鉄筋コンクリートのビルディングが建ち並び、電車が忙しそうに走り、
車が走っている世界ではないのです。私達の世界は素朴な世界なのです。
如来界、菩薩界といわれるような世界は、はっきりいって現代世界において田舎といわれる社会と同じなのです。
むしろ下の霊層の方々の方が、そういった都会社会を持ち込んでいます。
今は地獄にも鉄筋何階建のピルが建っております。
地獄にもエレベーターがあります。地獄にも病院があります。様々なものがあります。工場があります。
地獄でも鉄板工場なんかがあって、腕を切断されるようなことがあるのです。
今の世の中には、ヘルメット被って工事しているうちに、上から鉄柱が落ちてくる。
こういった地獄もあるのです。
非常に現代的な地獄になっています、それはそこへ行った人達の意識、働いていた世界がそうだったからです。
けれども時代がどのように変わろうとも、私達本来の天上界、神の世界においては相変わらず、
千年前も一億年前も人びとは牧歌生活を送っているのです。
そこには和やかな風景があります。
草花が咲き乱れ、高い丘、なだらかな丘があり、そして美しい湖があり、人びとは愛を語り合ったり、
親切を語り合ったり、神の子と讃えたりしています。
こういった生活に還ってくるにはそれなりの心が要るのです。
私たちの世界になじむためにはそういった近代的なことを知る必要はないのです。
ですから私がいっているのは荒唐無稽なことではないのです。
今のような時代ではあなたの言っているようなわけにはいかないとあなたは言います。
けれども私達の現に在るこの天上界において上に進む程、高い世界ほどそういった素朴な社会なのです。
それは事実なのです。
聞き手 まあそういうお説でございますが、たとえば、死と同時に大体自分が進むべき世界というのが
定まるようでありますけれども、その場合に過去六十年なり七十年の、
人生の間における持続してきた心の状態の決算によってそういう状態になるのか、
或いは死の状態によってその行き先が決まってしまうのかということの疑問が多少あるのですが。
老子 もちろん死ぬ時の状態ではなくて、総決算、本決算でありますけれども、
少なくともこの現代社会においても牧歌的な、のどかな風景の中で過ごすことができるような、
心の中にそういった平安、静けさを持ったことのある人でなければ、
私たちの世界に来ることはできないということです。
たしかに現代という時代は非常に忙しい時代です。人々は秒刻みの生活をしているのです。
分刻みの生活をしているのです。こういった中において独楽鼠のように人びとは動いているのです。
本来の人間から今は二十日鼠に移ろうとしているのです。
二十日鼠のように集団で動き回っていることを進歩したことだと思っているのです。
そうではないのです。そんなことで進歩、進化にはならないのです。
ですから立ち止まってものを考える習慣のない人間は天国に縁のない人間であります。
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いかがでしたでしょうか、よくよく味読していただきたいと思います。
そして、必ずやみなさまの日々の生活がすばらしいものとなっていくことを信じます。
category: 孔子の霊言
孔子の霊言 -純白のスーツのたとえ- 1 
2021/07/18 Sun. 11:55

今回は孔子の霊言より、老子の言葉を紹介させていただきます。
地獄霊が天国に入れないのは何故なのか。
純白のスーツのたとえで解説されています。
どうかご一読よろしくお願いいたします。
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純白のスーツの譬え
老子 〝異人種″というのではなくて実はこういうことなのです。
あなた方は衣服を着ています。衣服を着て生きているうちに様々な汚れがつきますね、
醤油を落としたり、或いはいろいろなシミがついたりしますね、
こういったことも直ぐさま、洗剤で洗うと落ちますね。
ところがこれを永いこと置いておくとシミはシミとしてもうとれなくなりますね。
洗濯をしても、クリーニングをしても取れません。
地獄の悪魔達というのは実はこういう方々なんです。
シミができて永い間取らずにおいておくためにもう落ちなくなっているのです。
そういうことなんです。ですからそれを落とそうとすると大変なことになるんです。
むずかしいんです。ですからシミができる前に洗って置かなければいけないのです。
早く、早い時期によく洗っておかないとそうなってしまうということです。
善川 こういう人達は自分たちでもうー回やり直そうと、立ち直ろうと思っても不可能なのでしょうか。
老子 というか、或る意味では自分達が現代の立場を選んでいるのです。
天使の世界というのは、たとえていうならば、白い上っ張りです。
白い衣装、純粋無垢な純白の衣服を着て人々が集まっていると思って下さい。そうしたところです。
彼らもそういった純白のドレスを着ていたのです。純白の衣服を着ていたのです。
それをあるいは食事中にソースを落としたり、
醤油がかかったりしてそれで大きなシミをつくってしまったのです。
大きなしみをつくって、それをすぐさま洗い落としにいってもみ洗いしてクリーニソグに出して
それで落とした人は直ぐパーティに帰って来れたり、或いは二、三日したら、また出て来れるのですね。
ところがそういったしみができたにもかかわらず、まあいいや、これくらいのシミは、と思っているうちに、
また平気になって他のしみをまたつくってしまった。
まあこれもいいわと思っているうちに、だんだんそういったシミが増えてきて、
やがて服もズボンも真黒になってしまった。茶色くなってしまった。こういった情況ですね。
そうするとその人はまあいいや、まあいいやといっているけど、周囲の人が黙ってはいないです。
『どうしたのですかあなたその姿は、ここはパーティ会場ですよ、
皆素晴しい白ドレスで着飾っています。あなたは何ですか、そのシミだらけの衣服は。』
そう言われるわけですね。
すると本人は『いいじゃないかと、何が悪いのだ。』と、まあこういっているわけです。
何が悪いのだと最初は言っているけれどもだんだんに不調和な雰囲気ができてくるわけです。
周囲の人達は折角素晴しい音楽をかけて純白のドレスを着て踊りを楽しんだり会話を楽しんだりしているのに、
シミだらけの男が一人居るわけです。
これは困るわけです。皆様暴力は振わなけいけれども眉をしかめているわけです。
そのうちにその男もだんだん不調和な雰囲気を起こして居られなくなり、
そしてそのパーティ会場から出ていってしまったというわけです。
ところがそれは早いうちにシミを落としとけばいいんだけれども、もう落ちなくなっている。
ですからその男は、どうするかというと、もうパーティ会場には帰って来なくなるわけです。
そういったことなんです、実際は。
ですから人間はそういうシミをつくる前に、よく洗い落とすか、そういった処置をとらなければいけないんです。
或いはね、こういうことです。
その男は十分なお金が無い。お金が無いもんだから新しい衣服、
白のツーピースを今汚してしまったんですが、彼のお父様は非常なお金持ちなのです。
ですからお父様にお願いして新しいツーピースを新調して下さいと、
心からお願いしたら買ってくれるんです。
お父さまは非常な金持ちです。お金持ちですから買ってくれるんですけれども、
そういったひねくれた男ですから、自分はもうシミがついたままでもいい、
このままでいいと、開き直っているわけですね。
そういった状態なのですね。これが地獄に居るということなのです。
ですからお父様は非常なお金持ちです。お金持ちですから、心からお詫びして
「お父様から買って頂いたこの礼服を私は今汚してしまいました。どうも済みませんでした。
失礼いたしました。どうか、私は二度とこんな汚し方はいたしませんから、
今度汚した場合には直ぐ洗ってシミを落とします。そして迷惑かけないようにします。
パーティの皆様に迷惑をかけたのは申し訳なかった、もうこれからはこういうことはしませんから、
どうか新しい礼服を私に買って下さい。」
こうして心からお願いしたなら、お金持ちのお父様ですから、勿論ニコニコして
「おう、いいとも買って上げよう、新しい礼服をお前に買って上げよう。
これは今までにない素晴しい礼服だよ、こんな素晴らしい純白の真新しい服は誰も着ていないよ。」
こういって必ず与えて下さるのです。だから道はちゃんとあるのです。
そういったお願いをしなければいけないのです。
category: 純白のスーツのたとえ
孔子の霊言 -純白のスーツのたとえ- 2 
2021/07/22 Thu. 20:45

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善川 まあしかし、それができるものと、できないものとがいるわけです。
出来る人はそこに反省期というものを、自分自身で十分時間をかけて、
そして本来の元居た自分の世界へと還ってくるのでしょうが、
そうでないものは、その反省もせず、現実の自分達の世界に居坐って、
類は類をもって集まるの法則に従い、彼らは徒党を組み、
さらに親分子分の関係をつくり、
そのボスの言う通りボスに従って行動しているというのが現状ですが、
そういう彼らに神は自由を与えられているということが問題ではなかろうかと思うのですが…
老子 しかし、少なくともパーティ会場には入って来れないのです。
その姿では入っては来れないのです。
しかしそのシミだらけの服でね、いろんな街を放浪しているんです。
しかし人にすぐ見つかってしまうのです。
あすこに汚い男が来るよと言われる。
それで、かまわないじゃないか、と最初は息巻いているのですが、
いろんな人に指差されるとだんだん居られなくなってまた次の町へ逃がれて行きますが、
そこでもまた同じようなことが繰り返されて次の町へと逃げていく。
こういうように彼らは安住するところのない可哀想な人達なのです。
それでもお父様にお願いしたくないと、反発しているのです。反抗心をもっているのです。
帰って来て、故郷に帰ってお父様にお願いすれば買って頂けるのです。
それをあくまでも自分の節を曲げないと、俺はシミをつくった、
しかしこれは悪かったとは思わない、そういう我意、我執です。
自分の節に固執しているこうした姿なのです。
だからあなたは自由を許すというけれども、彼ら自身そんなに楽しければいいですよ、
楽しければあなたの言うとおり自由ですよ、けれども彼らは楽しくはありません。
彼らの大部分は苦しいといっています。辛いといっています。
それでも時折乱暴しているわけです。暴れているんです。
けれどもいま言った喩と一緒で、一つの村から村へ、町から町へ動く時に、
やはり人々からいろいろ指を差されてですね、厭な感じを受けてまた居られなくなるとよそへ行く、
こういうことなのです。
ただね、仲間が居るのです。似たようなのが居るわけです。
穢い男がね、乞食や浮浪者のようなのが居る。
こういった者とは話ができる。浮浪者がね、もの凄い身なりをして居るわけです。ある町にはね。
それを見ると男は胸を張って言うわけです。
「俺を見ろ! 今はこれ汚れているけれども俺のスーツは純白だったんだ」
こういって浮浪者相手に威張っているわけです。
ですから浮浪者の方は浮浪者の方で「ああこの人は今汚れているけれども、元着ていた服は、いい服みたいだ、
キットいいとこの若旦那に違いない。或いはいいとこの坊っちゃんに違いない。」
と、こういったことで敬まったりするわけですね。
これが地獄の親分子分の関係の姿です。
しかし誰もそういうふうになりたいとは思わないでしょう。
何がよくて、何がよくないかということは、
人々がそういうふうに憧れるかどうかということで決まると思うのです。
category: 純白のスーツのたとえ
孔子の霊言 -純白のスーツのたとえ- 3 
2021/07/23 Fri. 00:40

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善川 まあその程度で済めばいいのですけれども、
彼らはさらに味方を増やそうとしてこの三次元に生活している者に憑依したり、
彼らを誘惑したりして味方に引ずり込もうとそういう態度で餌物を狙っていますが。
老子 まあそれはね、こういうことなんですよ。
彼らはパーティ会場に入ってくることはできないのです。
しかし、小窓が開いているんですね、パーティ会場には、
そうすると、立食パーティをやっているわけです。
食べているうちにまた、なかの誰かが純白のスーツ、純白のドレスを汚すことがあるんですね。
あ、汚しちゃったなと、その人は思います。
洗いに走ろうかなと思っているのですね、その時に窓から顔を出してですね、
「おいおいお姉さん。僕も、それ汚したけど気にしなくてもいいよ」
「そのままでいいじゃないか、またどうせ汚れるんだからいいじゃないか」と、
こうやって誘惑の声かけているんですね。
言われてみるとそうかなと思ってね、またそのシミのままで、
またその立食パーティを続けている。
そのうちまたシミが付いちゃうと、また来るわけですね、
「いいじゃないか、いいじゃないか」と
すると、だんだんそのシミが拡がって、先ほど言ったのと同じことになるわけですね、
だから彼らは誰かに小窓から、誘惑の囁きの声を送っています。
けれどもそれを聴くかどうかはね、その人自身の自由なのです。
彼らも強制的にどうこうすることはできないんです。
もし地獄霊達が強制的にこの世の人間を狂わすことができるなら、
この世の人間はほとんど狂っています。
もう既に狂っております。けれどもそうではありません。
それは心に開いた小窓だけを通して彼らが話しかけることができるからです。
その窓が大きくなっていると、勿論力ずくで浚うこともできるわけです。
で、その小窓とは一体何であるか、
それがあなた方がよく知っている、同類相通ずるの法則なのです。
彼らと通じている部分がどれだけあるかですね、最初は少さな小窓なんです。声が聴こえるだけです。
それがだんだん開いてくるわけです。
やがて自由に出入りできるような大きなドアになってくるわけです。
ここまでくると、さあどちらが悪いとも言えない面があるわけです。
どちらもどちらという意見もあります。そういうことなんです。
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category: 純白のスーツのたとえ
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