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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

親鸞聖人霊示集  

親鸞聖人霊示集128-184

失敗をした人、過ちをおかしてしまった人、挫折をしてしまった人、
自らの無能さと愚かさから立ち直れないでいる人、

自分はなぜ、このように無能なのだろう、なぜここまで力がないのだろう、
なぜ、なにごともなすことができないのだろう。

私は、人に対して、世の中に対して、何の役にも立っていない、何の助けにもなっていない、
私は本当に不要な人間である、生きている価値のない人間である。
このような思いの中で、日々苦しんでおられる方がいるかもしれません。

あるいは、罪を犯してしまった人、はからずも罪を犯さざるを得なかった人
とりかえしのつかない罪を犯してしまった、ぬぐいさることの出来ないその事実を前に
苦悩のまっただなかにおかれている人、

その人が、その罪をおかすまで、どのような心の遍歴があったでありましょう、
それは、想像するに、あまりあるものであったはずです。

私は、とりかえしのつかない罪を犯してしまった、いま死ねば地獄の底で何百年ももだえ苦しむに違いない。
こうした人達には、もう救いというものはないのでしょうか。

世の勝者、成功者たちは言うでしょう、失敗した人たちよ、
あなたがたが失敗をしたのは、あなたたちに能力がなかったからだ、努力が足りなかったからだ、
精神力が足りなかったからだ、人間として劣っていたからである。

罪を犯した人たちよ、それは、あなたがたの信仰心が足りなかったからであり、心に中に悪があったからだ。
私たちが成功したのは、そのすべてにおいて、他の人より優れていたからである。
一般の人とは違う、優れた存在であり、特別な存在であり、善なる存在であるのだ。

はたしてそうでしょうか、世の勝者、成功者は、成功してゆく過程において、
なんらの間違いも犯さなかったのでしょうか、

多くの人びとを苦しめ、傷つけ、敵対する人を落としいれ、蹴落としてきた、
そのような事はなかったのでしょうか。

世の成功者の代表的なものに、社長というものがあるでしょう。
こうした社長という人は、そうした立場になっていくうえで、
いったいどれだけの人びとを苦しめたのでしょうか。

いったいどれだけの人を傷つけたのでしょうか、多くの人を左遷し、首を切り、
その人の家庭にどれだけの不和を、不幸を起こしてきたのでしょうか、

しかも、それを本人は善人であり、成功者であると思っているのです。
そして、世の人びとは、社長のようになりたいとうらやましがっているのです。

人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行いを振り返ってみるべきです。

それを問いつめるだけの優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。
人間、人を裁くことはできないのです。

すなわち、本当の世界とは、心の世界なのです。
外見を偉い人であるかのごとく、罪一つ犯さない人のように、取り繕うことは可能です。

しかし、心の世界は、誤魔化すことはできません。
神仏の眼から見た人間の心は、一目瞭然です。

「汝らのうちで罪なき者のみ、この女に石もて罰せよ」とイエス・キリストは言いました。

キリストは、罪を犯したことのない者と言いましたが、では、もう一歩進めて、
「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を罰しなさい、裁きなさい」と言ったとしたら、
裁ける人は一人でもおりますか、そんな人は、だれ一人としていないはずです。

この世に生きている私たちにとっては、何が善であり、何が悪であるかは、なかなかわからないのです。

何が善であり、何が悪であるか、何が正しいことであり、何が間違っていることなのか、
それを知っているのは、神仏のみであるということなのです。

そうであるならば、神仏の前に謙虚であろうではありませんか、謙虚に生きていこうではありませんか。

神仏とは、偉大な方であります、この世界を創り、生きとし生けるものすべてをこの世界に送り込んだ方なのです。
神仏とは、私たちの父であり、母であるのです。

あなたは、あなたの可愛い子が足にすがりついたとして、それを蹴飛ばせますか、両手で抱き起こすでしょう。

人間は神仏が創られた子供なのです、神仏の分けみ魂なのです、なぜそのようにつれなくつきはなしましょうや。
その子のお行儀がいいから、その子のはい方がいいから、その顔つきがいいから抱き上げる、
その子の顔つきが悪ければ蹴飛ばす、そのようなことを神仏がなされるはずがありません。

もし、あなたが、地獄の底に堕ちたとしても、いかなる罪を犯してしまったとしても、
どのような悪にそまってしまったとしても、けっして神仏は見捨てることはありません。

たとえ、世界中の人があなたを見捨てたとしても、神仏はけっして見捨てない。

限りないやさしいまなざしで、限りない愛でもって、あなたを見守り、そこから救い上げ、
限りない幸福へと導こうとしている方なのです。

神仏の愛とは、神仏の慈悲とは、それほどまでに深く、広大なものなのです。

私たちは、このような神仏の慈悲のもとに、生かされている存在なのです。

そのすばらしい真実のもとに、勇気をもって生きていこうではありませんか。
そして、そのことが神仏の御心にかなうことであり、神仏が私たちに期待していることであるのです。




category: 親鸞聖人霊示集

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親鸞聖人霊示集 -悪人正機説- 1  

親鸞聖人霊示集128-184


親鸞聖人の教えの中に悪人正機説という教えがあります。
善人が救われるのなら、悪人が救われて当然である。
むしろ悪人こそが救われるのである。

この教えについて、疑問に思っておられた方も多いでしょう。
それは逆ではないか、善人こそ救われて悪人が救われないのが当然なのではないか。

今回は、親鸞聖人霊示集の中から、その悪人正機説の本当の意味を紹介させていただこうと思います。


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まず、言っておかなければいけないことがあります。

それはすなわち、あなた方生きている人間には、何が善であり、何が悪であるかは、
わからないということなのです。

もし親鸞が、何が善であり、何が悪であるかということを言い切れる人間であったなら、
親鸞は、一人ひとりの人をつかまえて、「お前はここが悪いから、ここを正せよ」と言ったでありましょう。

しかし、何が善で何が悪かは、人間ではわからないのでござる。
これは、神仏のみが知っておられることなのです。

ですから、この世には、悪を犯したと言われて命を奪われる者、悪を犯したといって死刑を宣告される者がいる。
そのような者は、悪を犯す前において、決して幸せであったはずがありません。

人を殺そうと思うような心になるということは、その者が幸せではあり得ないのです。

そこで、その者は、その事実そのものにおいて、すでに罰せられているのです。

人を殺そうという気持ちを起こすということ自体が、すでに罪なのです。

そういう気持ちが起きたということは、その者はどれだけ不幸で、どれだけ苦しんでいるかを証するものであります。

あなた方は、幸いにして、人を殺したいとまでは、思ったことがないでしょう。
人を憎んだことはあるでしょう。怒ったことはあるでしょう。
ただし、人を殺したいとまでは思わなかったはずです。

すなわち、あなた方は、それだけ幸福な、幸せな存在なのです。

しかし、人を殺そうと思って殺してしまった人は、その事実、もう消しがたい事実によって、
すでに罰せられているのです。

その人がそこに至るまでにおいて、どれだけ多くの人が、その人に対して悪をなしたでありましょう。
その人がそこまで至るまでに、一体どれだけの心の遍歴がありましたでしょうか。

その人のご両親、その人の兄妹、その人の親類、その人の先生、その人の友だち、あるいは、道行く人びと、
そうした人びとは、その者に対し、慈悲深い行為をしてきたでありましょうか。

情深く接したでありましょうか。そうではなかったはずであります。

その者は、すでに罰せられておるのです。死刑にされる前に、すでにもう罰せられているのです。

ですから、その者を、さらに刑務所に入れ、なお生きている命を奪う。
これは悪を重ねているようなものであります。




category: 悪人こそ救われる

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親鸞聖人霊示集 -悪人正機説- 2  

親鸞聖人霊示集128-184


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すでに結果です。人を殺すということは、これはもう、死刑と同じです。

生きている人間としては、仏性の最悪のところまできているのです。
仏性が最悪のところまできているのです。

仏性が最悪に曇っておるのです。これだけでも罪です。

殺したいとまでは思わない人は、恵まれた人たちであります。
そう思うということだけでも、もう罰せられています。

その人は、人を殺す前において、その罪は、もう贖われるているのです。それだけ苦しんだ魂です。

よくぞそこまで、苦しんだ。

それを赦さないで、責め続けるのは間違っています。

魂が苦しんでいるのです。

あなた方は、同じ時代に生きていて、人を殺したいとまでは思わないでしょう。
人を殺したいとまで思わないのは、あなた方が優れているからですか、そうではないはずです。

つまり、あなた方が、それだけ不幸ではないからです。
人を殺したいと思うところまで、不幸ではないのです。

実際、人を殺してしまった者は、不幸な方なのです。

むしろあなた方は、同情すべきであって、責めたてるのは間違っています。

また、人を裁く人がおります。善人だと思っておるのでしょうか。

私は、職業が悪いとは言いません。
ただ、警察官であるとか、検事であるとか、裁判官であるとか、その職業柄、人を裁かねばならぬ人がおります。
この人たちのなかに、悪はないのでしょうか。彼らのなかに、悪はないのでしょうか。

彼らは、少なくとも人を殺す、殺してしまうほど不幸な人ではないはずです。

しかし、情心をもって接したでありましょうか
人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行ないを振り返ってみるべきです。

それを問いつめるだけの優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。
人間、人を裁くことはできないのです。

すなわち、本当の世界とは、心の世界なのです。

外見を善人ぶることは、だれでもできます。
いや、だれでもではないでしょう。

しかし、できる人もいます。外見を、偉い人であるかのごとく、罪一つ犯さない、
虫一匹殺さない人のように、とり繕うことは可能です。

しかし、心の世界は、誤魔化すことはできません。
神仏の眼から見た人間の心は、一目瞭然です。

「汝らのうちで罪なき者のみ、悪を犯したことがない者のみ、この女に石もて罰せよ」
とキリスト、イエス・キリストは言いました。

キリストは、罪を犯したことのない者と言いましたが、
では、もう一歩進めて、「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を罰しなさい、裁きなさい」と言ったとしたら、
裁ける人は一人でもおりますか。

あなたでも、裁けないはずです。あなたも身に覚えがある。心に覚えがあるはずです。




category: 悪人こそ救われる

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親鸞聖人霊示集 -悪人正機説- 3  

親鸞聖人霊示集128-184


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この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける
 
私の悪人正機説は、一見奇異に聞こえるでしょう。
悪人こそが救われるなどと言うのは、邪宗そのものに聞こえるでしょう。

善人が救われるのに、悪人が救われないわけはない。
悪人こそ救われるのだ。それが弥陀の本願だ。

しかし、このようなことを言って、普通の頭の人が理解できるとは、私は思いません。

それは逆ではないか。善人こそ救われて、悪人は救われない。
それが公平な裁きではないか、そう思うでしょう。

しかし悪人は、よいですか、悪人というのは、悪人であるということ自体で、
すでにもう罰せられているのです。

すでに魂は苦しんでいるのです。

あなた方は、人を殺そうと思うところまで苦しんだことはないのです。ないはずです。

いくらあなたがつらい人生を送ったとしても、刃物で人を突き殺そうとまでは思わなかったはずです。

すなわちあなたの魂は、そこまで苦しんだことはないということです。
彼らの魂は、そこまで苦しんだ、これが悪人です。

ところが、世の善人たちはどうでしょうか。
自分たちは、法衣を被って、勉強して、その知識でもって淡々と事務処理を進めていきます。

裁判官がそうです。彼らは法律をよく勉強して、刑法とかさまぎまなものを知って、
こういうことをしたらこの罰に相当することがわかっている。
ですから、無期懲役であるとか、死刑であるとかを、いとも簡単に、決断を下しているのです。

ところが、悪を犯す人は、そうした法律を学んでさえいません。勉強したこともないのです。

自分の行為が、一体どのような罰に当たるのかも知りません。
そうしたことすら知らない人を、それを知っている人が裁いておるのです。

それを知っている人は、自らの心のなかに悪がなかったかどうか、反省していただきたい。

悪は、きっとあるはずです。

心のなかに悪がある者が、他人の悪を責めるということは、私たちの世界、
心の世界においては、一体どれだけつらいことであるかを知っていましょうか。

わからないからこそ、責めるのです、人を。

よいですか、もし人の心と心が開けっぴろげにわかるならば、罪にうちふるえて
いる人でさえ、それを裁かんとする人びとの心の曇り、誤り、悪を知っているはずです。

そこで、「あんたの心のなかにも、悪はあるじゃないか」 と言えるはずです。

そのときに、裁きができるでしょうか。

善悪は、人間では決められないのです。決められないのにもかかわらず、
現代の人間において、やむを得ず裁きをする人もいましょう。

しかし、これからの人もまた、救うべき立場ではなくて、救われる人です。

これは、何も、法の裁きをする人だけではありません。
あなた方の大部分が勤めている会社というところにもあります。

人間は、会社という組織のなかで偉くなっていきます。
しかし、出世をしていく途次において、そのなかには、それだけの悪を含んでいるはずであります。
栄達した人のかげには数多くの泣いてきた人がいるのです。

たとえば、重役となり、社長となれば、彼らは、すなわち偉い人だとみなされます。

本人も偉い人だと思っています。

しかし、世に偉い人と思っている人は、その奥にどれだけ悪を含んでいるでしょうか。
一体何人の人を苦しめてきたか、一体何人の人を人事で左遷してきたことでしょうか。

平社員で一生終わる人がいます。そういう人は不幸かもしれません。
金銭的にも不自由かもしれません。

しかし、そういう人は、人の悪口は言えても、人の首を切りたり、人を左遷したりしたことはないはずです。
つまり、そういうことは、立場上しなくてもすんだからであります。

ところが、社長と仰がれるような人は、幾度人の首を切り、幾度人を左遷し、
幾度いろいろな家庭に不幸を起こしたことか。

しかも、それを本人は善人であり、成功者であると思っておるのです。
そして、世の人びとは、社長のようになりたいとうらやましがっているのです。



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親鸞聖人霊示集 -悪人正機説- 4  

親鸞聖人霊示集128-184


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総理経験者が地獄で苦しんでいる理由


親鸞が善人、悪人は、今の世で言えば、成功者と、そうでない者であります。
こう言えば、あなた方にもわかるでありましょう。

神は失敗した人と成功した人とでは、どちらを救ってくださるでしょうか。

自分の人生は失敗をしたと思っている人、一生平社員で終わった人、
会社を首になって職を転々とする人、能力を持ちながらもその芽を伸ばせずして苦しんでいる人、

あるいは、能力を持ちながらも家庭環境、病、事故など、さまざまな問題が起きて、
そのオ能を発揮できなかった人。

あるいはまた、若い人たちが今、野球というものにうち興じているが、
オ能を持った子供が、たまたま晴舞台で怪我をしたがために、
プロの選手として活躍する機会を失う。こうしたこともあるのです。

神は一体どちらをいとおしいと思われるでしょうか。
仏はどちらを救いたいと思われるでしょうか。

答えはわかっています。すなわち、世の失敗者こそ、神仏が、
両手にとって抱きしめたいと思っている人びとなのです。

悪人もまた、悩んでいる人です。悩んでいる人とは、失敗した人です。
成功した人ではありません。

成功した人びとは、自叙伝を書いたり、自分の成功談を人に話します。
「俺はこうして社長になった」と。

しかし、社長になったときに、どれだけの悪を含んでいるかです。
その人は、それをおそらく生涯反省することはないでありましょう。

そして、失敗者たち、成功しなかった人たちは、自分の人生は何とつまらない人生であったことかと思う。

一方、成功者たちは、何と素晴らしい人生であったかと、そう思ってその人生を閉じるのです。

しかし、その後の世界においてはどうでしょうか。イエスが言ったとおりです。

すなわち、イエスは、「己れを低くするものは、高くされ、己れを高くするものは、低くされる」と言いました。
そのとおりなのです。

自らの悪を見つめ、自らの弱さを見つめ、自らの悩みを見つめ続けた人こそが、
本当に神の愛を受けるにたる人間になるのです。

自らを成功者だと思い、この世的に偉いと思っている人、自分を秀れた人、
立派な人、善人だと思っているような人。こうした人たちこそ、
この世を去ったときに、反省すべきことが多いはずです。

失敗者は、この世において、すでに反省をしておるのです。
この世において、なぜ自分は失敗をしたのかということを、日夜考えているのです。

しかし、成功者は、この世においては、なぜ俺は成功したのかという点だけを、日夜考えている。
そして、あの世に還って初めて、反省を始めるのです。

世に総理大臣とかいわれる人びとも、そうです。
歴代の総理大臣のなかには、今、地獄で呻吟している者もおります。

しかし、彼らには、その理由がわかりません。

俺は、世のなかで登りつめた人間だ。日本で一番偉かった、一番の成功者だ。
その俺が、なぜ地獄にいるのかと考える。

すなわち、自らの成功のみを考え、自らの失敗を知ることが少なかったからです。

しかし、この世で自らの失敗を見つめた人は、あの世で自らの失敗を見つめ続ける必要はないのです。

一方、この世で自らの成功を追い求めた者は、あの世で自らの失敗を、
心の世界における失敗を知る必要があるのです。それがわかるまでは、反省を続けねばならんのです。




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