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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

カントの霊訓 -あの世では階層ごとにどのような人が住んでいるか- 6  

ソクラテスの霊言128-183



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地獄界の様相(血の池地獄)

また、地獄の中には、さらに違った地獄がある。

ある意味ではあなた方のほうがくわしいかも知れないけれども、
〝血の池地獄〟といわれるようなものも現にあるのである。

これは、生きていた時に、情欲に心を燃やして世の中を渡って来た人達が行くところである。

情欲に心を燃やすということは、あらゆる人間において、
すくなくとも青春期の一時期にはまぬがれがたいことであり、

大部分の人間は死ぬまでそれを無くすることは出来ないものである。

情欲の思いそのものは、決して悪いものではない。

それは種族保存のために与えられたものではある。

だが要は、その人の人生における価値観である、ということなのだ。

さまざまな人は、さまざまな〝念い〟を持っているけれども、
その中で一番強く思ってきたこと、一番強く希ってきた念いによって、
その人の傾向というものは瞭らかに打ち出されているのである。

この"情欲地獄""血の池地獄"に陥ちている人々の特徴とは、
この世に生きていた時に、性的な快楽のみが最高であると思い続けて来た人が行くところである。

その様相は、あなた方が既に"血の池地獄"として昔話に聴いているものとほぼ同じものである。

そのような生臭い、ぬめぬめとして、血の海のような中において人々は囁いでいる。

これは、本当に自分らが目指して来たものが、実はこのように苦しい醜いものであったということを、
十分に分かるまで経験させられるのである。




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カントの霊訓 -あの世では階層ごとにどのような人が住んでいるか- 7  

ソクラテスの霊言128-183



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キリスト者と仏教徒のかつての罪悪感は誤り

この場合、血の池地獄から私はかつての宗教家達の誤りをいくつか正しておきたいと思う。

キリスト教の考えにおいては、この地獄の中においても、たとえば貞節を喪う罪といって、
結婚前に貞操を失ったら直ぐ地獄に行くというような考えもあった。

或いは二夫にまみえずという言葉があるが、夫以外と交わると直ぐ地獄に行くというような教えがあったと思う。

こういった考えは確かに社会生活を維持する上には有益であり、正しくその方向でいかねばならないけれども、
逆に人間が霊的な存在であるならば、性的な経験を持ったかどうかということ自体で、
その人自身の全人生が裁かれて地獄に陥ちるわけではないのである。

これは間違えてはいけない。

かえって性的なものに余りこだわるということは、唯物的に物事を考えているということである。

であるから、この地上における性道徳に関して一言いっておくならば、
あくまでも良識ある行動は大切だけれども、かたくなに、余り形式的に考えるならば、
この世のほとんどの人は今は地獄に堕ちねばならない。

しかしながら、人間はそういった不自由なものではないのである。

要はその人の価値観、人生観であるということだ。

こういったことで、仏教徒に対しても、私は言っておきたいけれども、
年老いてから自分がさまざまな遍歴をして来た。

性的な遍歴をして来たから、もう自分は地獄に陥ちると、
罪の意識にさいなまされている人も居るかも知れないけれども、

必ずしも性的な経験そのものが地獄に結びつくわけではないのである。

要は、その人のトータルの人生観であり、
トータルの価値観として何を一番強く人生において心に刻みつけたかということなのである。

であるから、ある罪を犯したら、直ぐ地獄に陥ちるわけではない。

かつて宗教家達は、そのような偏狭な思いが多かったようである。

例えば〝万引き″という行為がある。これ自体は悪い行為である。

しかし、人間が七十年生きて来て、一つの万引きをやったからといって、
それで地獄に陥ちるわけではないのである。

残り数十年、六十年、七十年の彼の人生が、トータルで見て、
如何なる人生であったかということが肝要なのである。

そのような形式的な罪の意識が、有名な小説である例えば『レ・ミゼラブル』の
ジャン・バルジャンのようなことになるのである。

生活苦のために、一片のパンを盗んだということで、全人生を批判されるというようなことがあるであろう。
そういったことになるわけである。

人間達、特に宗教家達、道徳家達は罪の意識が余りにも尖鋭化されているために、
一片の罪と、また山を築くような善行との比較さえもできないようなことがあるのである。

であるから、この際私は、地上に在る人々に言っておきたいのであるけれども、
人間は、一片の罪なく死することは出来ないのである。

さまざまな罪を犯していくであろう。

それを反省することは大事であるが、要は全人生において、自分が如何に善なるものを創り出していくか、
如何に善なるものを生み出していくかということだ。

たとえ罪を犯すとしても、その罪に囚われて一生を送るようでは、やはりあなたは罪の人であるということだ。

罪を犯したとしても、その反省を契機として、さらに素晴らしい人間として起ち上がるならば、
あなたは一つの罪を犯さずに善良なる人生を送った人以上の人格を築くこともできるのだ。

決して決して、罪を犯すこと自体が悪いのではないのである。

罪を犯したままの心で一生終わることが悪いのである。

これを「経験」としてみたならば、さまざまな経験として見たならば、また人間としての雅量を、人格を、
大きな器とするための契機とすることはできるはずである。

要はどのような経験を得ようとも、それを契機として、その人の人格がより一層素晴らしいものとなったか、
その経験によって本当に穢された人生となったかどうか、ということだ。

であるから特に仏教徒もそうであるけれども、キリスト教徒の皆さんに対しては、
罪の意識に対して、私はいま一つ言っておきたい。

地獄で確かに苦しんでいる人達も居る。
彼らは生きていた時に、十分反省しなかったために、いま自分の経験を通して苦しんでいる。

けれども、罪の意識というものは、罪というものは、その人とイコール、その人と同じものではない。

罪を犯したからその人が罪人ではないのである。
罪は罪であり、その人はその人であるのである。

喩えて言えばこういうことだ。鏡というものがある。鏡が曇れば人の姿も曇ってくる。
けれども、鏡が曇るということは、鏡自体が曇ったということではないのである。

鏡の表面に霧や、或いは塵芥が、そういったものが付着したということだけである。

これはまた、磨けば美しい鏡となるのである。

罪というものは、このようなものであって、拭けば無くなるものであり、
人間の本性そのものを喪うことはできないのである。

であるから罪というものは、譬えて言うならば、衣服のようなものである。

人間、何十年か生きていく間に、さまざまな衣服を着込むのである。
この衣服、間違った汚ない衣服を着てしまっているのである。

間違った汚ない衣服を着ているのであるから、この汚ない衣服を脱ぎ捨てて、
新しい清潔な美しい衣服に着替えなさい、と言っているのだ。

中味の人間自体は汚れもどうもしていないのである。

どうかこのことは忘れないで頂きたいのである。

これが四次元の説明である。




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霊界、五次元世界の様相

さらに、<五次元世界>の説明をしたいと思う。

五次元にはまず大別して、二つの人々が居る。

その一つ一つのグループというのは、死後短期間のうちに直ぐ五次元、"霊界" に上って来た人達である。

この人達の大部分は、生きていた時に、善良な人達として生きていたということが一つ、

いま一つは、何らかの意味での宗教心、信仰を持っていたということだ。

この信仰心というものは、必ずしも、神を信ずるというものでなくともよい。

或る意味で哲学的に物事を考えられることでもいいし、道徳的に物事を考えられるということでもよい。

何らかの意味において精神性、精神というものの価値に目覚めた人達ということである。

精神の価値に目覚めた、いわゆる肉体を脱した、

肉体以外の精神の価値、精神というものの大切さに気付いた、
心の大切さに気付いた人達が居るのが、この五次元世界である。

四次元においては、地獄においても、地獄以外の世界においても、
まだ肉体というものを中心とした生活を送っている。

ところが五次元においては、精神、心というものが大事だということが分かっているのである。

彼らはまだ本当の意味において宗教の本質や、哲学の本質、世界の仕組みということは全然知らない。

けれども心が大切だということ、善良な思いで生きるということが大切だということは知っているのである。

そういう意味において道徳的には或る程度、善良な市民として生きたいという人が居るのが、
この五次元であり、五次元世界には、人数としては非常に多くの人数の人が居る。

地上の、例えば霊界における存在のうちの五割近い、或いは五割から六割の人が
このいわゆる五次元"霊界"に住んでいるのである。

彼らは毎日、人間としても生活しているけれども、多少なりとも精神的な生活を、
その日々の中に持ち込んでおり、五次元の世界においては、この地上におけるのと同じような、
教会とか、神社、仏閣があるのである。

その中においてまた、徳の優れた人々の教えを乞うている。

或る意味において学習ということ、宗教的な教育というのが中心になって行なわれているのである。

この世界でも光の指導者達が身を窶して降りて行って指導をしているのである。




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また、この五次元の世界は、人々が抑留する期間も非常に永いのである。

この中において結構満足している人達は多いのだ。
人間らしい生活もできるし、また、或る意味で霊的な<覚>もあるということである。

折中した世界であるということで満足する人が多いのだ。

そういう意味でこの五次元で留まって、また再び、地上に生まれて来るという人が多いのである。

これが五次元の世界である。

まあ、この世界においては、地上にあるものはほとんどすべて在るといってよい。

まだ一部の人達は、食事もして居れば、さまざまな人間として経験したことをやっている。

けれども、意識の進んだ人達は、もう人間は、飲まず食わずとも生きている、生き通しの体だということを知っている。

けれども、大部分の人間は、地上生活のことは忘れてしまって、
五次元世界自体が、地上世界であるかのような生活をしている。

その中において、多少なりとも精神的な生活をしているということである。

まあ、この地上でいうならば、クリスチャンでいうならば、
普段は普通の仕事をしながら日曜学校に通って、教会で牧師さんの教えを聴いている人達の集まりだと思えばよい。

決して「神」の名前を出したからといって怪しな人だと言われることもない。

そういった良識ある人達の集まりである。

この五次元からは、大部分が生まれ変わるのであるが、更に上へと進化する人達が居る。




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神界、六次元世界の様相

つぎが<六次元の世界>である。

五次元のうちで六次元に進化していく人というのは、残念ながら一割にも充たない。

残りの九割の人は、五次元で留まって、また生まれ変わってくる。

一割ぐらいの人が、五次元の中において高い悟りを得て、六次元に入っていくのである。

この六次元世界というものは、あなた方が知っているように、あなた方の言葉では「神界」と言われている。

神界というのは、或る意味において神の力の一部が与えられている人達ということだ。

"神界"というのも広い意味での天界、神界、菩薩界、如来界などを含んだ「天界」の中にあって、
天界下段階ということだ。

この六次元に居る人達というのはどういう人達かといえば、
一口でいうならば、この地上において世の中の進化のために役割を果たした人達ということだ。

或いは人々を何らかの意味において指導できる人々ということだ。

霊的に指導する場合もあるし、また科学技術、或いは芸術、さまざまな分野で指導する人達も居る。

ただ彼らの多くは、一言でいうならば、優れた人達なのである。

また別の言葉で言うならば、有能な人々と言ってもよい。

いま、この神界の中において増えている人々は、どういう人々かというと、
たとえていうなら科学技術者である。

科学者、科学技術者、今の時代においては非常に多い。

また善良な学者達も非常に多い。
教育が高度に進んでいるため神界への入り口もいま増えて来ている。

また、この中においては、初歩的ではあるけれども、宗教家達も居るのである。

レベルは低いが、小さな巻の神々、或いは地方の小宗教、新興宗教の教祖なども六次元世界には結構多い。

彼らの生活はどうかというと、彼らはもう、たとえば人間的にいうならば、
食事をしたり、飲み物を飲んだりというようなことはほとんどなくなっている。

彼らはもう自分らが霊的な存在であるということは、百パーセント知っている。

その中において、自分らの才能を伸ばして生きているということだ。

画家は絵を描いている。詩人は詩を書いている。小説家は小説を書いている。

こうした世界が六次元世界である。





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