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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 8  

谷口雅春の大復活128-182


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今後の予定

さて今後の予定ということで、まあ私個人のことも多少語っておきたいと思います。

如来界、菩薩界をまだ私も見始めたところでありまして、まだまだすべてをつかんでいるとは言いかねますが、
でき得るならば今後とも、この実相世界の探究をしてみたいと思っています。

そうして、生前私が「生命の実相」という言葉で表現していたものの本質が、
いったいなんであるかということを地上の諸君に伝えたいと思います。

私は「生命の実相」という言葉、その言葉自体がひとつの悟りであったと思っていたけれども、
生命の実相とはいったいなんなのか、あるいは実相の大地とはいったいなんなのか。

これをもっともっとこちらで研究をして、勉強して、地上の皆さんにお伝えしたいと思う。

私の生前の教えとしてもし足らぎることがあるとするならば、それは霊的世界、
この霊界の本質についてのさらなる探究、研究だろうと思う。

この自分の法の足りない部分の追加を、私は今こちらに還ってさせていただこうとしているのです。
霊的世界についての実感、実相感、これをもっともっと教えたい。

これが私の情熱です。

これはすなわち、救世の情熱そのものでもあるということを知っていただきたい。
それは地上にいる諸君も、地上を去ってこちらに還って来るとわかるのです。

人を助けるということ、人を導くということには本当に最後ということがないということ。

限度ということがないということ。いつまで経っても、その情熱の炎は消えないということ。

情熱の炎、人を救わんとする情熱の炎が決して消えないということこそ、
天使の性格であるということを知ってほしいと思う。

どうか、私の立場もよく考えた上で、諸君らも大人の態度をとられるように。それを願う。

あなた方も霊の世界があることを知っているならば、
谷口雅春が雲の上から見ていてあなた方をどう見ているか、よくよく考えていただきたいと思う。

こうした霊界見聞録は、今後も機会があればさらに詳しい情報を流してゆきたいと思う。

そしてあの世の見取り図を創ることが、地上の人たちにとってひとつの生きていく勇気ともなるだろうし、
希望ともなるであろうと思う。


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category: 霊界見聞録

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谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 7  

谷口雅春の大復活128-182


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天国の意味

さて、如来界、菩薩界という世界を見てきたわけだけれども、ここで天国とは何か、
天国というのをもう一回考えてみたいと思う。

如来界、菩薩界というのは典型的な天国の姿なわけです。天国の理想像にあたるわけです。
こういう世界を見て、天国とはいったいなんなのか。

これを考えてみたいと思います。

そうしてみると、天国、あるいは天国的なる生活には、三つほど鍵になる考え方があると思います。

それが何かと言うならば、第一に安らぎがあるということ。これが言えると思う。
そこに安らぎがある。これは天国のいちばん大きな条件だろうと思う。

切瑳琢磨ということはまだあることはあるけれども、安らぎがある。これが第一点です。

天国の第二の条件、特徴としましては、これは自信があると言いますか、
すべての人が神の子としての自覚をしていて、神の心を体して生きている。

こういう自信に溢れている。これが言えると思う。
本当の自信だ。

地獄などでは悪魔とかいう、そうしたものが自信ではなくて、
自己過信をして暴れたりしていることがあるけれども、
そうした偽物の自信ではなくて本物の自信を持っている。

それは、自分が神と一体であるという自信だと思う。

こうした自信を持っている人は非常に力強く輝かしく、また誇らしげに見えるという事実があります。

天国のあり方としての三番目を見ると、これはひとつの理想像だということだ。

これは天国の意味にもなると思うが、ひとつの理想像だと思う。
あるいはユートピア世界のこれが理想像、見取り図だと思う。

この如来界や菩薩界にある理想像、理想国、ユートピア世界がやはり、
いろんな世界に投影されているのではないか。

これがあなた方が言う六次元という世界、五次元、四次元というそれぞれの世界に投影されて、
それぞれの世界の到達すべき目標として心に描かれているのではないだろうか。

また、地上にも何度か神の国を創るというユートピア運動が出たけれども、
このユートピア運動も実は、この天国、如来や菩薩の世界を地上に移そうとする、そうした運動ではなかったのか。
こういうふうに思えるわけです。

だから言ってみれば、結局モデルはここにあるということだ。

そうしてみると、地上に降りているあなた方が
いったいどのようなユートピア建設に立ち上がったらよいかというと、
やはり如来界、菩薩界というものをひとつの手本として、それを地上で模倣してみることだ。

そうしたものを実現させるための障害物はいったい何かということを考え、
地上でのその障害物を取り除いていくということに努力、邁進していくことだ。
これが大事であろうと思う。

そのために、私たちがこうした考える材料を次々と与えているわけだ。
これを大切にしてほしいと思う。

だから、阻害しているのは唯物思想であるとか、地上特有のものの考え方だ。
それから目に見えぬものは信じぬであるとか、あるいは心の世界に気がつかない人たちの存在であるとか、
まあいろいろある。こうしたものだろうと思います。

天国の意味というものをよく考えて、あるべき、あるいは来たるべき理想像を追究していく。
そういう態度を取っていただきたいものです。





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谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 6  

谷口雅春の大復活128-182


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菩薩の教え

菩薩について話をしているわけだけれども、菩薩の教えについて、さらに考えてみたいと思います。

菩薩になると教えの種類も大変広いです。

菩薩の七割強は宗教家だと言われておりますが、宗教家であるならば、
もちろんキリスト教系も仏教系も神道系もあれば、他のいろんな教えもあります。

なかには菩薩でも気の毒なことに、未開の人たちを指導するために降りていっている菩薩もいます。
そういう未開の人たちを指導するために降りていく菩薩は、どういうふうになるかと言うと、

たとえば酋長をやったり、あるいはシャーマンをやったりしながら、
人の本当の姿、神の子であるという事実を教えます。
これなどは、かなり難行苦行に属する修行だと思います。

そうした菩薩であるならば、かなり高い悟りをもともと持っているのだけれども、
あえて人喰い人種とは言わんが、そうした土人の中に混じって生まれていくことがあります。

そして霊能者のようなことをやったり、あるいは酋長をやったりして人々を導いたり、こういうこともあります。

このように菩薩というものは、かなり方便を使って実践活動をしているというのが、現状ではないかと思います。

また、宗教そのものを教えるというよりは、
医療活動の中に挺身している菩薩も数多くいることは事実です。
こういう菩薩もおります。

いろんな各方面に入り込んで、社会福祉の領域であるとか、医療の領域であるとか、
いろんなところで活躍しています。

また先生の中にも菩薩をやっている人もいますし、今、文壇あるいは論壇で活躍しているような、
そういう評論家先生の中にも菩薩と言われる方は何人かおります。

まあそうだね、評論家も何人か、確かに菩薩と言われている人もいる。
言論界をリードする、そういう方だね。

こういう方がいるということも知っておいてほしいと思います。

さあ政治家などでは菩薩が多いかどうかということだが、
まあ政治家などは現在ではやはり少ないと言わざるを得ないね。

もう少し政治の理念というものが技術的なるものから離れて、
天下国家のために本当に生きていった時に菩薩としての政治家が誕生するとは思うのだが、

いかんせん、どうもこの世的なかけひき、
集金、集票能力というものを問われている現代の政治家であっては難しいと言えようか。

もう少しその人の人生観を見て政治家を選べるようになってくれば、
菩薩が政治家として生きていくことも、かなりやさしいこととなってくるだろうと思う。

特に政治を浄化していくためには、菩薩たちが、
あるいは光の天使たちが政治の世界にも出ていけるような環境を作ってやる必要がある。
そういうふうに思います。

そのためにはやはり、本人の人生観というものが大きくクローズアップされる必要があると思うし、
信仰心というものも大きくクローズアップされる必要があると思う。

宗教に対して一億総アレルギーのような現代の日本のあり方は、正しいあり方とは言えない。

何がそうさせたのか。四十年前の敗戦がそうさせたのか。私は必ずしも言い切ることはできないけども、
ただ一億総懺悔、総アレルギーというのは悲しい事実であろうと思う。

やはり宗教に対してもかなりの寛容な精神を持つ、そういう人がいることが大事だと思います。

神、仏というのが戦争のためにいつも使われているというような、
そういう狭い発想であってはいけないのではないか。

また神風が吹くというような戦前の行為を、そのまま現代に持ってくる必要もないであろう。
私はそういうふうに思います。

以上、いろいろと話をしたけれども、菩薩の教えとは何かと言えば、
結局一言で言えば、それぞれの専門分野でもって愛の具体化をしている、これが菩薩であろうと思う。

そして、菩薩の教えの中には形がない。具体的なる形はないということが言えると思う。

実践活動の中、教えの中、あるいはいろんなものを解釈したり、
伝えたりしている中に菩薩行があるということだ。

これに関して如来の法というのは、やや抽象性があることは事実だと思う。
根本法に近くなってくる。そして抽象的なることも多くなってくるだろうと思う。

まあ私の法で言うならば、「本来、肉体なし」とか「本来、病なし」、あるいは「生命の実相」、
こうした悟りがだいたい如来の悟り、如来の教えであろうと思う。

それ以外に私はいろんな教え方をしましたが、「神の子としての教育法」であるとか、
あるいは「家庭の平和」であるとか、まあいろんなことを教えましたが、
こうしたことが菩薩の法にあたるわけです。

したがって、如来の法の中には如来の法と菩薩の法を含んでおりますが、
菩薩の法ではなかなかそこまではいかない。そういうことだ。

したがって、菩薩の教えとして実践を重視したというのでは、
一燈園の西田天香などがその典型だろう。

箒をもって京都じゅうを掃いて回って、そして無一物中無尽蔵の生活をしていった。
こうしたことが言えるであろう。





category: 霊界見聞録

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谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 5  

谷口雅春の大復活128-182


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菩薩の条件

さて、そうした菩薩界の生活を見てきたわけだけれども、この菩薩の条件とはいったいなんなのか。
これをこちらに還った谷口雅春の目で分析してみたいと思う。

こうしてみると菩薩というのは、ある意味ではやはり弟子であるという点は否めないと思う。
弟子としての生活であるということは事実だ。

彼らには、それぞれ師がついている。

師がついているというのは、手取り足取り教えているという意味では必ずしもない。
そうではないけれども、如来クラスの人が必ず師をしている。

そしてその師に対して二十人、三十人、あるいは四十人、五十人の菩薩が師事している。
教わっている。こういうふうに言えるだろうと思う。

これは、菩薩と言えどもまだまだ人間的完成者ではないということなのだ。

すなわち、もちろん通常の人よりは遥かに高い境地にいるけれども、
人間的な完成までまだ到っていない。

如来まで行って初めて、かなりの人間的な完成を見るのではないか。そういうふうに私は考えています。

したがって菩薩においては、まだまだ人間的なる完成というところまでは行っていないけれども、
かなり群を抜いた、傑出した人材となっていることは事実であろうと思います。

かなり傑出した人物である。そしてその人の地上時代の生活が、
なんらかの面において人類の進歩、向上に必ず役に立っていた、役立っていた、こういう条件があると思う。

人類に役立たないような生き方をして、菩薩の世界に還って来るということはまずない。
これは、諸君にも心の中に刻んでほしいことだと思う。

それと菩薩の条件として、さらに考えてみるとするならば、やはり、根本には愛があると思う。

菩薩の世界というのは、やはり愛の世界だと思う。愛の世界とは何かというと、
人に尽くそうとする考えだ。あるいは人に親切に生きようとする考えだ。

まあ親切という言葉は、現代では「親」という字と「切る」というような字を書いている。
親を切ると書いて親切などと言っているけども、まあこういうのは適切な言葉とは言えない。

親切ということは、本当は「深く切なる」と書かなければいけない。
深く切に人に接する。これを深切と言うが、まさしく菩薩の世界というのは、この深く切なる世界だと思う。

心深い所まで人のために尽くそうと思っている。
そして切ないほどに愛する。また尽くす。これだね。こういうことだ。

私は自己献身というような考え方はあんまり好きではないけれども、
それは、自分自身が生長することができなくなってくるからね。

自己犠牲というような考えは私はあまり好きではないけれども、
菩薩の中にはその傾向性として、ややそういうところがあるのは事実のように思う。

これについてもう少し皮肉な見方をするならば、お人好しが多いということだと思う。
菩薩の人々は地上に出た時に、かなりお人好しであったのではないか。

そういうふうに考える。お人好しでなければ、そんな人のために尽くそうなどと思わんし、
お人好しでなければ、地上を去って天上界に還って、また地上の人々を指導しようなどとは思わない。

私はまだ地上の人を具体的に守護、指導をしたという経験はないが、
こうした霊言を送るということも一つの指導かもしれん。

その私のわずかながらの経験を生かして話すとするならば、
地上の人間を指導するということは、これはそう生半可なことではない。

大変なことです。労多くしてなかなか報われない世界であろうと思う。

地上の人間の意識と、こちらの天上界にある霊人たちとの意識のギャップは、
これはいかんともしがたいほどのギャップだと思う。

生長の家で神想観などをやって、道場でみんな精神統一していても、
この私の本が谷口雅春の言葉かどうかさえわからん方が多いということを知った時に、

いかほど、この三次元の地上世界と四次元以降の霊的世界とが違うかということを、
つくづくと感じる今日この頃です。

しかし、私たちが住んでいるこうした如来界や菩薩界という世界のことを、
生命の実相、実相の世界、このように言っていたのが私の生前の教えであったろうと思うし、
その意味では確かにその通りであろうと思う。

実相、実なる相(すがた)、その相(すがた)とはいったい何かと言うと、結局、人間は神の子であるのだから、
神の子としての本来の姿ということだと思う。

神の子としての本来の姿とは何かというと、そこに如来や菩薩の境地がある。
このように言えるのではないか。

すなわち如来や菩薩という方は、地上的な塵や垢をおとして一皮も二皮もむけて、
きれいな光輝いたそうした霊的な体を持っている。こう言えると思います。





category: 霊界見聞録

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谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 4  

谷口雅春の大復活128-182


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菩薩の生活

この如来界というものを見た時に、非常に豊かな緑の中で、安らいだ光の中で人々が生活をしている、

そういうふうに表現ができると思いますが、この如来の世界、私たちが住んでいる世界から、
菩薩の世界に行くとすると、どういうふうに行くのか。

次元が違うというが、具体的にどう違っているのか。こういうことを疑問に思う読者も数多いであろう。
そこで、それについて多少話をしていこうと思う。

もちろん私たちはもはや霊であって肉体はないがゆえに、
地上的なる感覚で必ずしも感じているわけではないが、
まだ私のように地上を去ってそう日の経っていない霊にとっては、
ある程度地上的な人間の感覚というものもあてになる、
頼りになる感覚であることは事実です。

そこで私はどちらかというと、日本という地域の上空にあたるようなところで、
日本式家屋、庭園のある所に住んでいると、こういうふうな話を前々回であったか、いたしたと思いますが、

まあそれがひとつの如来界と言われる世界であるけれども、
そこからたとえば菩薩の世界に降りていくにはどうするかというと、
谷口雅春が羽をはやして空を飛ぶ姿などを誰も想像したくはないであろう。

そこでそういう話はさておいて、実際に視覚的に感じるとするならばどうか。
こうしてみると、まあこれは、ひとつの丘を下るというような行為にあたるわけだ。
                  
私たちの住んでいる所からちょっと町外れ、あるいは村外れに来ると丘になっていて、
丘を下っていくわけだ。この丘を下っていくと下の方の世界に出ていけると、まあこういったことだ。

途中でやはり雲海のようなものがある。雲海というのは雲の海だ。
私たちは雲の上のような所に住んでいる。私たちが住んでいる山、あるいは丘から見ると、
足元の方に遥かに雲がたなびいている。雲の大海になっているわけだ。

したがってこの丘を下っていくと、この雲の中に入っていくわけだ。
そして雲の中で、しばらく霧の中のようなこうしたところがあって、
これを通過していくと下の世界に出てくる。

これが菩薩の世界と言われている。

最近知ったところによれば、この如来の世界というのは八次元と言い、
菩薩の世界を七次元と言うという。

視覚的に言えばそういう雲海だな、雲の海を突き切ることによって次元の壁が破れるということになる。

まあ現実にそうした霧というものがあるはずもないのであって、
これはあくまでも視覚的ビジョンであろう。

ただ人間的感覚では、そういうふうにとらざるを得ない。

この下の菩薩の世界へ行くとどうなるかというと、ここも大変美しい世界で安らいだ世界であるが、
如来の世界に比べると、やや活気を帯びている、活発であるということが言えるのではないかと思う。

如来の世界の場合には人数が少ないこともあって、それぞれが独立していて瞑想的生活をしたり、
何か学問をやったり、いろんなことをやっている方が多いが、

菩薩の生活を見ると非常に行動的で活動的である。
また菩薩たちは非常に陽気である。こういうことが言えると思う。

そして彼らはよく会合を持って、いろんな集いで話し合っている。
そして現実に地上に行ったり、あるいは下の次元の霊界に行って指導をしたりと、大変忙しい仕事をしている。

まあ菩薩の生活というのは言ってみれば、地上的に言えばモーレツサラリーマンの生活のようなものだ。
モーレツサラリーマンのように働いているし、まあ格で言えば部長クラスというところだろうか。

部長クラスで、やり手の部長ということでバリバリと働いている。
それが菩薩の世界であろうと思います。

この中には、先ほども少し言いましたが、日本では賀川豊彦のような方もいるし、
また明治時代であれば維新の豪傑たちがかなり多く住んでいます。菩薩が多いです。

坂本竜馬であるとか、こうした人たちもみんな菩薩だ。勝海舟であるとか、木戸孝允であるとか、
木戸孝允は少し高い所にいるかもしれんが、あと吉田松陰であるとか、
こうした明治の偉人たちもこの菩薩の世界に多く住んでいて、やはり先生役をやっていろんなこを教えているようだ。

宗教家では、あと大正の親鸞と言われた一燈園の西田天香、こういう人も住んでいます。
これ以外にも、女神の世界としては天理教の中山みきであるとか、大本教の出口ナオ、
これらの人たちも菩薩クラスの女神だろう。

それ以外にも北村サヨというような、こういうふうな教祖もいた。この方も菩薩界へ還っているようだ。
こういう人々がいる。

ただこれも、この菩薩の生活はずいぶん分かれていて、学問的なことを好きな人は学問をやっているし、
宗教の好きな人は、やはりいろいろ教えを説いたり、実践活動をするのに専念しているようだ。

こういうふうに、菩薩はやや活動的生活をしていると言えるのではないかと思う。





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